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2011年10月

2011年10月19日 (水)

カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (2)

 9月6日に書いた「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)」の続きです。誤訳や意味の分かりづらい部分がありましたらご一報下さい。よろしくお願い致します。

Kazuo Ishiguro - NEVER LET ME GO

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「カズオ・イシグロ・インタビュー ~ The Art of Fiction 第196回」 (2/2)
(『THE PARIS REVIEW』 2008年春号収録)


――創作科のプログラムは作家になるための手助けになったと思われますか。

イシグロ: 考えたら私がなりたかったのはソングライターだったんです。ところがドアは開いてくれなかった。結果私はイースト・アングリア大学に行き、学友たちに励まされ、そこから数か月足らずで雑誌に短篇を発表し、最初の長篇小説の出版契約を結ぶに至りました。確かに創作科で学んだことは技術的な面で助けになりましたよ。私には人々の耳目を引く文章を書く能力はないと感じていました。書いているものはごくありきたりの文章です。私の良きところは草稿の段階で現れると思っています。草稿を読み返しているときに次回の作品に関係するアイデアがどんどん浮かぶのです。
 マルカム・ブラッドベリの次に現れた指導者がアンジェラ・カーターでした。私にとって重要な存在です。彼女からはビジネス面について多くを教わりました。今も私のエージェントを務めているデボラ・ロジャーズを紹介してくれたのも彼女です。またアンジェラはグランタ社のビル・バフォードに私の作品を送りました。何も言わずに。
 当時カーディフにアパートを借りて住んでいました。ある日台所にあった公衆電話が鳴ったとき、ちょっとおかしな話なのですがこう思ったんです。「公衆電話が鳴っている。じゃ、先方の男はビル・バフォードだな」と。

――二作目の長篇小説『浮世の画家』(An Artist of the Floating World)は、戦時中軍国主義寄りの立場をとったことが幽霊のように主人公の画家につきまとうという話でした。この作品は何にインスピレーションを得たのでしょうか?

イシグロ: 『遠い山なみの光』には、老教師がそれまでに築いた価値観を考え直すことを迫られるというサブプロットがありました。私はこの男についてひとつ本格的な小説を書いてみたいと思いました。たまたまある時代に生きているというだけの理由でキャリアのすべてを汚されることになる画家の物語です。
 そして『日の名残り』(The Remains of the Day)はその二作目がきっかけとなって生まれました。『浮世の画家』を読み返したときに思いました。「キャリアの点から見れば無駄に費やした人生を私はテーマとして選んだ。テーマの追求という点で言えば今回の作品は十分に満足している。だが個人的な生活の方はどうなる?」と。若いときは何でもキャリアと結びつけて考えるものです。後になってそれは人生の一部に過ぎないと悟るわけです。
 私はそれらを全部ひっくるめたものをもう一度書いてみたいという気持ちになっていました。どうやって人はキャリアの点で人生を無駄にし、個人的な領域において人生を無駄にするのかを。

――日本は小説の舞台にもはや適していないと判断された理由は何ですか。

イシグロ: 『日の名残り』を書き始めるまでに自分の書きたいことの本質は場所がどこであっても変わらないことに気付いたのです。

――そこにイシグロさんの際だった特徴があると思います。ある種カメレオン的な能力が備わっていると見るべきでしょう。

イシグロ: いや、そんなにカメレオン的だとは思わないな。私が言いたかったのは同じ本を3回も書いてしまったということなんです。それでも何とかうまくやりおおせしました。

――そうおっしゃいますが、最初の二作品を読んだ読者が次に『日の名残り』を読むとサイケデリックな気分を味わうんじゃないでしょうか。あの説得力のある日本の舞台からいきなりダーリントン卿の地所へ飛んでしまうわけですから。

イシグロ: それは最後のものを最初に読むからですよ。本質は舞台設定の中にはありません。少なくとも私にとっては。ただそうでないケースがあることは私も知っています。プリーモ・レーヴィの作品などは、舞台設定を取り除いたら本自体を捨ててしまうのと同じことになります。最近私は北極を舞台に置き換えたすばらしい『テンペスト』を観劇しました。ほとんどの作家は意識的に判断して書く部分と、意識せずに書いてしまう部分のふたつを持っています。私の場合、語り手と舞台の選択は念入りに行います。特に舞台に関しては細心の注意をもって選ばなくてはなりません。様々な感情と過去の歴史の〝残響〟は舞台設定と共にもたらされるからです。でもあとでいわば即興演奏ができるような余地を大きく残しておきます。例えば今ちょうど書いている小説ですが舞台は奇妙なところに落ち着きました。

――どんなところへ?

イシグロ: それについてはあまり話したくはありません。初期の段階で書いていたものを例に挙げますからその話をさせて下さい。
 ここしばらくずっと小説に書きたかったことがあります。社会それ自体がどのようにして記憶を保ち、忘れていくかについてです。個人が不愉快な思い出とどう折り合いを付けていくかについてはすでに書いたのですが、そのときあることに思い当たりました。個人の記憶と忘却の仕方は社会が行う場合とは全く異なることに。忘れるのにより良い時期というのはあるのか? この問題は何度も頭の中をかけめぐりました。
 第二次世界大戦後のフランスが興味深いケースです。ド・ゴールは、
「我々にとって必要なのは国が再び元のように動くことだ。かつて誰と手を組んだのか。組まなかったのは誰か? それについてあまり思い悩むのは止めよう。自己省察は次の時代の人々に任せようではないか」
 と言いました。多くの人は彼の言ったことは正しかったと主張するかもしれません。しかし一方で、そのせいで正義は十分に果たされなくなり結局それはより厄介な問題を生んだだけだと考える人もいます。これはむしろ精神分析医が感情を抑圧している人に向けて言う言葉ですね。もし仮に私がフランスについて書くとしたらその本はまさしくフランスをテーマにした本になるでしょう。ヴィシー政権の専門家たちと対峙せざるを得なくなる自分の姿を想像しました。「それであなたは何が言いたいんですか?」「何のかどで私たちを糾弾するのですか?」等々問い詰められることになるでしょう。実際そんなことをしたらもっと大きなテーマを書きあらわすことを余儀なくされます。
 もうひとつの選択がスター・ウォーズ的戦略です。〝遙か銀河系の彼方で・・・〟というやつです。『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)はその方向で行きました。それ自体が挑戦になりますが。ともかく私は今述べた問題をずっと抱えていました。

――結局どうされたのですか。

イシグロ: ひとつの解決方法が西暦450年の英国を小説の舞台に置くことでした。ローマ人が去ってアングロ・サクソン人の支配が始まると、それはケルト人のせん滅を導きます。ケルト人に一体何が起こったのか誰も分かりません。彼らは姿を消してしまいました。大虐殺、せん滅がそのとき行われました。時を遡れば遡るほど物語は隠喩的に読まれるようになります。人は映画の『グラディエーター』を見るときそれを現代の寓話として解釈するわけです。

――『日の名残り』の舞台がイギリスに定まったのはどのような経緯で?

イシグロ: 始まりは妻のジョークからでした。その日一作目の小説についてのインタビューをするためにジャーナリストが自宅に来ることになっていました。それで彼女はこう言ったのです。
「その人が真面目なしかつめらしい質問をして来たら、あなた、私の執事のふりをするというのはどう? 可笑しくていいんじゃない」
 私たちはそれを面白い発想だと思いました。以来私はメタファーとしての執事に取り憑かれることになりました。

――何のメタファーでしょうか?

イシグロ: 二つあります。ひとつは我々が感情を殺し、ある種凍結してしまうことのメタファーです。イギリスの執事はおそろしいほど控えめでなくてはなりません。また周囲で起こるどんなことに対しても個人的な反応は示してはなりません。英国人気質を掘り下げるだけではなく、我々にみな共通する部分、すなわち他人に深入りすることの恐れを描くには格好の方法に思えました。
 もうひとつは、大きな政治的な決断を他人に委ねてしまう人々の象徴としての執事です。彼は言います。「私にできることは主人に仕えるためにベストを尽くすことです。代理人を通じて社会に貢献をしていますが、私自身は大きな決断は下すつもりはありません」と。私たちの多くは、民主主義の社会に生きているいないにかかわらずそのような立場に立っています。私たちのほとんどは大きな決定がなされるところの住人ではありません。私たちは自らの仕事をし、それに誇りを抱き、そのささやかな貢献が上手に利用されることを願っています。

――あなたはジーヴズ(訳注・イギリスの作家P・G・ウッドハウスが造形したキャラクター)のファンでしたか。

イシグロ: ジーヴズからの影響は大きいです。ジーヴズに限らず、映画の目立たないところで演じられてきた執事の姿、身のこなし、すべてから影響を受けています。彼らにはそこはかとない面白みがありました。どたばた喜劇的なユーモアではありません。普通なら気も狂わんばかりの表現を必要とされるような場面であっても彼らはそっけない台詞を口にするだけです。そこには哀愁も漂っていました。そしてその頂点にいたのがジーヴズです。
 その頃までには非常に意識的に海外の読者に向けて書こうと考えていました。思うに反発があったのではないでしょうか。先行する世代が書いた英国の小説にはある種自覚的な局地主義(パロキアリズム)が見られました。それに対する反発です。思い返すとそのときが転換点だったかどうかは分かりません。でも我々の仲間の間では、自国の読者だけではなく海外に向けて発信しなくてはならないという意識がありました。こうすれば可能だと思った手法のひとつが、世界的に知られているイギリスの神話を取り入れることでした。この場合はイギリスの執事ということになります。

――調査はたくさんされましたか。

イシグロ: はい。しかし召使い自身によって書かれた文献のあまりの少ないことを知って驚きました。第二次世界大戦の直前まで相当多数の人たちが雇われ従事していたはずなのに。自分たちの人生が書くに値すると思ってる人たちはほんの一握りなんですね。びっくりです。ですからあの小説で描かれている、執事の心得や一連の作法のほとんどは頭の中で作ったものです。スティーヴンズは「職務計画」(staff plan)という言い方をしますがこれも私が作った言葉です。

――『日の名残り』も含めあなたの小説の中心人物はみな、悲劇的なまでにわずかな差で恋愛のチャンスを逃してしまいます。

イシグロ: わずかな差で逃してしまうんでしょうか。私には分かりません。案外大差で逃している可能性もありますよ。彼らは過去を振り返ったとき思うのかもしれません。「あの瞬間が変わり目だった。あのときを境にすべてが違っていたはずだ」と。あるいは、小さな運命のいたずらに過ぎなかったんだと思いたがるかもしれません。でも実際は巨大な力によって、愛だけでなく人生に欠くことのできない他の物まで取り逃しているものなのです。

――そのようなキャラクターが次々と登場するのはなぜだとお考えですか?

イシグロ: 自分自身を精神分析してみなくてはなぜかは分かりませんね。けれどもし作者が自作に繰り返し現れるテーマについてきちんとその理由を説明し始めたら、そんな作者の言うことは信じてはだめですよ。

――『日の名残り』はブッカー賞を受賞しました。成功は何か変化をもたらしましたか?

イシグロ: 『浮世の画家』を出版したとき私は未だ無名の作家として暮らしていました。それが出版してから約半年後にブッカー賞の候補作に選ばれると一夜にして状況は変わりました。作品は結局ウィットブレッド賞を受賞しましたが、私が留守番電話を買うことを決めたのもその時です。知らない人が突然私たちを夕食に誘ったりしました。すべてに対してイエスと言う必要はないのだと理解するまでにしばらくかかりました。そうでもしないと人生はコントロール不能になってしまいます。3年後ブッカー賞を受賞する頃にはやんわりと人の申し出を断る仕方を身に付けていました。

――作家の生活にはプロモーション活動も含まれています。ツアーやインタビュー、そういったものは執筆に影響を及ぼすものですか?

イシグロ: 二つの点ではっきりと影響を受けます。ひとつは働いている時間の3分の1はそれで取られてしまうということ。もうひとつは、洞察力に優れた人々がインタビュアーだったするとこれまたたいへんな時間を割かねばならなくなることです。「あなたの作品に三本足の猫がいつも出てくるのはなぜ?」とか「鳩のパイに対するオブセッションは何を意味してるんですか」とか。作品に流れ込んでくるものの多くは無意識的なものです。いろいろ言われましたが、そういったもののイメージから受け取る感情の残響までは分析されなかったと思います。
 ブックツアーに出ると物事が同じように進むとは限りません。昔はできるだけ正直にオープンに接するのがより良いことだと思っていました。しかしそこから受けるダメージを目にするようになりました。頭がもみくちゃにされる作家もいます。心を不当に侵害されたと感じ、結果的に怒りにかられるようになります。それが小説の書き方に影響を与えないわけはありません。机に向かうと、書く前に「俺は現実主義者である。そして同時にある種の不条理主義者でもあるのだ」などと考えたりするんですよ。ますます自意識が過剰になって行きます。

――執筆中に「こう書いたら翻訳者に迷惑がかかるかも知れない」と考えることはありますか。

イシグロ: 世界の様々な地域に自ら赴くと、文化的な面でどうしても訳せないものがあることに気付かされます。デンマーク人に一冊の本を説明するのにときどき何日もかかったりもします。ブランド名やその他文化的な基準点になるものを使うのを私が好まないのは、単にそれらが地理的な問題で移し替えることができないからではありません。時間と共に移し替えができなくなるからです。30年も時が経てばその手の言葉は何の意味もなくなります。ただ別の国の人々のために書くのではありません。別の時代の人々に向けて書いているのです。

――書くことは規則的にされていますか。

イシグロ: たいてい朝10時から書き始めて6時くらいで終えます。4時頃まではEメールも電話も無視するようにしています。

――コンピュータはお使いになりますか。

イシグロ: 二つ机があるのですが、ひとつにはライティング・スロープ(訳注・傾斜のついた台)があってもうひとつの方にコンピュータが置いてあります。コンピュータは1996年から使い始めました。ただしインターネットには繋いでいません。第一稿はライティング・スロープの上でペンを使って書く方が私には性に合います。私の手から離れた場合それが誰にでも判読できるようなものだったら困るな、とは思います。最初の草稿はしっちゃかめっちゃかです。文体や統一性、そういった類いのことには一切注意を払いません。片端から紙の上に書き留めることが大事なのです。以前使ったアイデアとそぐわない新しいアイデアが突然ひらめいたら一応それも付け加えます。振り返ることができるようにノートに書き溜めてあとでみんな整理します。それから全体のプランを立てます。章の数を決め、位置を前後に移動させます。第二稿に着手するまでには、自分がどこに向かっているのか前よりも明確なイメージを持っています。この辺りに来くれば筆の運びはすごく慎重になります。

――通常草稿はいくつくらい書かれるのですか。

イシグロ: 第三稿を超えることは滅多にありません。そうは言いましたが、個々に何度も書き直さなければならない箇所はあります。

――イシグロさんのように処女作から三作目まで続けて高い評価を得られる作家は極めてまれです。しかしついに『充たされざる者』(The Unconsoled)が世に出ました。今ではあなたの最高傑作と考える批評家もいますが、批評家の多くは「これまでに読んだ中で最低の作品だ」という発言を残しています。それについてどう思われますか?

イシグロ: 論争の場に自分も飛び込もうかとよっぽど思いましたね。本がまだ三冊しか出ていなかった頃私の作物に対する批判があったとすれば、おそらくそれは「大胆さに乏しい」というものでした。私はこれについては多少なりとも真実が含まれていると感じていました。『ニューヨーカー』に『日の名残り』の批評が載ったことがあります。全編に渡って非常に熱烈な批評だったように思いますが、こんなことが書かれていました。「この作品の問題点はすべてが時計じかけのように動いている点である」と。

――つまり完璧すぎると。

イシグロ: ええ。私の中にはだらしなさとか大胆不敵さがないと言うんでしょうね。すみずみまでコントロールされているというわけです。でもふつう人は、完璧すぎるという理由で批判されるだなんて思いもよりませんよ。まったくね、批評なんてそんなものです。しかしその批判の言葉は私が感じていたことに何かこだまするようでした。私はひとつの小説をとことん手直しし磨き上げる方でしたから、当時は自信のないことでも無性にやってみたい気持ちにかられていました。
 『日の名残り』を出版したすぐあとのことです。妻と私は大衆食堂の片隅に座って、世界の読者に向けた小説をどう書くべきか議論をしていました。普遍的なテーマを何とか見つけ出そうとしていました。すると妻が「夢の言語こそは世界共通の言語だ」と指摘しました。どんな文化圏に生まれようと、誰であってもそれは一致する点だと。続く何週間かのうちに段々と考えがまとまり始めました。はて、夢の文法は何だろう?
 たった今、妻と私は部屋にいて会話をしている。家には自分らを除いて誰もいない。その場面に第三者が登場することになる。順当に行くならまずドアのノックがあり、誰かが入って来る。そして我々はこんにちはと挨拶をする。だが「夢の心」はその種のことに我慢がならないわけです。部屋でふたりきりで座っていたら、突然第三者が真横にいることに気付く。そうかずっと前からいたんだな・・・と、こうでなくてはなりません。直前まで人の存在に気付かなかったことに軽い驚き程度のものはあるかも知れませんが、その人物が提示するものに向かって疑いもなくまっすぐ進んで行きます。それがどんなものであったとしても。
 これは面白い、と思いました。そのときどきの感情的な欲求に従って記憶と夢は巧みに操られます。このことを念頭に入れながら記憶と夢の類似点を探り始めました。また私は、読者に私の書いたものを特定の社会に対する論評としてではなく、あくまで隠喩的な物語として読んでもらいたいと願っています。おそらく夢の言語はそのような書き物を著すことを可能するでしょう。数か月間ひたすらメモを取りました。メモで一杯になったファイルがさらに積み上がったところで、ようやく小説を書く準備が整ったなと感じました。

――書き始めたときにはプロットはもう決めてらっしゃいましたか。

イシグロ: 二つのプロットがありました。不幸にも離婚寸前の親のもとで育ったライダーという男の物語。それがひとつです。彼の頭の中では、両親が仲直りするかどうかは自分が彼らの期待にそえられるかどうかにかかっています。その結果、最終的にライダーは卓越したピアニストになります。意義のある重要なコンサートを開けばすべての傷は癒やされると考えますが、時既に遅し、です。両親の間に起こったことは何であれ、遙か昔に起こったことなわけですからね。
 そしてもうひとつがブロツキーという老人の物語です。最終幕で彼はめちゃくちゃにしてしまった人間関係を修復しようとします。指揮者という立場からそれをやり遂げられれば、生涯の恋人をもう一度取り戻せると考えています。その二つの物語はひとつの世界の中で起こります。そこでは、社会的な災厄はみな、間違った音楽の価値観を選んだ結果だと信じられています。

――困惑気味の批評家に対しどんな対応の仕方をされましたか。

イシグロ: 私は何も曖昧にすることに固執したわけではありません。むしろあの小説くらい明瞭な小説はないと思っています。夢のロジックに従うと一旦決めた以上、あのときは力の及ぶ限り明瞭であろうと努めました。夢の中ではひとつのキャラクターはしばしば別の人物に取って代わられます。小説に使ったことで混乱を生じたことは分かっています。しかしだからと言って、『充たされざる者』については一行も変えるつもりはありません。それがその当時の私にほかならないからです。『充たされざる者』は何年もかかってやっと落ち着くべき所に落ち着きましたね。これまでに他のどんな小説よりも数多く尋ねられて来た小説です。
 ブックツアーをまわっている間、特にアメリカの西海岸なんかですと夜の部は『充たされざる者』の時間にまるごと捧げなくてはなりません。学者たちも私の作品について書くときはこの小説にいちばん多くのページを割いています。

――次に出たのが『わたしたちが孤児だったころ』(When We Were Orphans)です。イギリス人の探偵であるクリストファー・バンクスが上海から失踪した両親にまつわる謎を解き明かそうとする物語です。

イシグロ: 『わたしたちが孤児だったころ』は、特定の時代と場所を舞台にしたものを書きたかった頃に生まれた数少ない作品のうちのひとつです。私は30年代の上海に魅せられていました。今日の国際都市の原型である上海。小さな区域に様々な民族がひしめきあっている都市。
 祖父はそこで働いていました。そして父もそこで生まれました。80年代に父は、祖父が上海で暮らしていた頃の写真やアルバムを持ち帰ります。会社の写真がたくさんありました。天井に備え付けられた扇風機の下で人々は白いスーツを着て座っている・・・まるで別の世界です。父からはいろいろな話を聞かされました。拳銃をしのばせた祖父に召使いにお別れを言いに行くから来いと言われ、いっしょについて行くとそこは日本人の立入禁止区域で召使いは癌で死の床にあった、とか。随分と想像力をかきたてられました。
 それから私は探偵小説をずっと書きたいと思っていました。シャーロック・ホームズに代表される英国人の探偵の人となりは、英国人の執事のそれとたいへん似通っています。思索的なところ。義務に忠実というよりもむしろ職業上の役割にとらわれている感じ。心を通い合わせられないところ、などなど。『充たされざる者』の音楽家のように主人公の個人的な世界は破綻していますが、そこには何かがあるんですね。クリストファー・バンクスの頭の中では、両親の謎を解決することと第二次世界大戦を止めさせることの間にあるものが奇妙にもすべて抜け落ちている。そのおかげで両者の問題は直結してしまっているのです。このおかしなロジックこそが『わたしたちが孤児だったころ』の中心に流れるものであり、私がこだわった点です。私たちの心の底には、子供だったときと同じ視点で物事を見ているもう一人の自分があります。それについて書いてみたかったのですが、思ったようにはうまく行きませんでした。最初にあったコンセプトは、ジャンル小説を小説内小説として書いてみることでした。私はバンクスに本筋とは別のところで、アガサ・クリスティばりの事件の謎を解明させようとしました。しかし結局それも途中で放り投げてしまいました。約一年かかりきりでしたから109ページもあったんですが。『わたしたちが孤児だったころ』くらい大変だった本はほかにありません。

――『わたしを離さないで』も頓挫した別のバージョンがいくつかあると聞いています。

イシグロ: はい。学生の物語を描くというのが元からのアイデアでした。人間の寿命が80から突然30に引き下げられた世界に直面する若者たちの物語です。巨大なトラックに積まれた核兵器が夜の間にあちこちに運ばれるところに出くわすことによって、ある意味彼らに将来はないことが示される。そういう筋書きを考えていましたが、結局は学生たちをクローンにすることで決着が着きました。なぜ寿命が限られているかという問いに対して私が用意した答えは「SF」でした。
 読む人が「人間であることに一体どんな意味があるのか」と思わずにはいられなくなることが、クローンを使うことの効果であり魅力のひとつです。「魂とは何か?」というドストエフスキーの愛読者の間で繰り返し問われて来た設問に、非宗教的な角度から道を付けたと私は思っています。

――寄宿学校を舞台とすることに特別関心があったのですか?

イシグロ: 子供時代のメタファーとしてちょうどいいんです。寄宿学校では、学校の管理者が子供たちが知っていることと知らないことを広い範囲でコントロールできる状況にあるでしょう。それは現実に私たちが自分らの子供に接していることとそんなに違わないように思えたのです。いろいろな意味で、子供たちは泡の中で育つのです。私たちはその泡の形を維持しようと努力します。おそらくまったく形を変えずに。そして不快なニュースから子供たちを守ります。それがあまりに徹底しているものだから、小さな子供を連れて歩くときにすれ違う人々でさえ、その謀議に加担することになるのです。道端で口論をしていたら止めます。「大人は喧嘩をする」という程度の悪いニュースであっても子供の目には触れさせたくないのですから、拷問の事実などなおさら言うわけがありません。寄宿学校はそのような現象を具現化したものなのです。

――イシグロさんは、批評家の多くが指摘するようにこの作品を非常に暗いものとしてお考えですか。

イシグロ: 実はですね。『わたしを離さないで』は「元気の出る」小説だといつも思っていました。過去において私は登場人物の様々な欠点について書きました。それは自分自身に対する警告でもあったし、また作品自体が〝人生いかに生きないべきか〟についての本でもあったわけです。
 『わたしを離さないで』によって、人間のプラスの面に焦点を合わせることを初めて自分に許したのだと実感しました。確かにあそこに出てくる人たちは欠点が多いかもしれない。嫉妬深く、狭量で、一般の人々と同じような振る舞いをしがちかもしれない。でも私はあの三人に基本的に慎み深くあってほしかった。残された時間はあとわずかだと悟ったときでも、地位や物を所有することに心を奪われてほしくなかった。私が彼らに求めたのは、お互いを思いやること、そして物事をあるべき形に直していくことでした。私たちの道徳心が荒廃していると言うのなら、私としてはそれに対抗する意味であの本を書いたつもりです。人間についての肯定的な面があそこには書かれています。

――題名はどのように選ばれるのですか。

イシグロ: 子供に名前を付けるようなものです。ああでもないこうでもないと悩み続けます。私が付けていないものも結構あるんですよ。例えば『日の名残り』がそうです。
 私は作家のフェスティバルに出るためにオーストラリアにいました。マイケル・オンダーチェ、ヴィクトリア・グレンディニング、ロバート・マクラム、それからオランダの作家のジュディス・ヘルツベルクらと浜辺に座って、完成間近だった私の小説の題名を考えるために冗談とも本気ともつかないゲームをしていました。マイケル・オンダーチェは『サーロイン ―あるジューシーな物語』がいいと言ったり(訳注・juicy には「そそられる」「興味をかきたてられる」という意味もある)。まあそんなレベルだったわけです。おかげで私は、この話は執事と関係のある話なんだよと何回でも言わなくてはなりませんでした。そのときジュディス・ヘルツベルクが「Tagesreste」というフロイトの用語をふと口にしました。フロイトが夢の話をするときに用いる言葉で、「日中の残骸」といった意味があります。ジュディス・ヘルツベルクはその場の思い付きで「日の名残り」(remains of the day)と訳し、それがそのまま題名になりました。作品の雰囲気から言ってもそれがぴたりとはまるように思えました。
 次の小説は二つの選択肢がありました。「充たされざる者」(The Unconsoled)と「ピアノ・ドリームズ」(Piano Dreams)です。かつて、私たちの娘に相応しい名前はナオミであると言って私と妻を説き伏せた友人がいました。私たちが「アサミ」と「ナオミ」の間で引き裂かれそうになっていたとき、友人は「アサミはサダムとアサドを足して二で割ったような感じに聞こえるな。だいいち、アサドはシリアの独裁者じゃないか」と言ったのです。
 さてその男が言うことには、
「ドストエフスキーなら『充たされざる者』を選んだかもしれん。しかしエルトン・ジョンなら『ピアノ・ドリームズ』を選んだろう」
 そういうわけで私は「充たされざる者」に決めました。

――実際あなたはドストエフスキーのファンでらっしゃいますよね。

イシグロ: はい、もちろん。ディケンズ、オースティン、ジョージ・エリオット、シャーロット・ブロンテ、ウィルキー・コリンズ。みんなファンですよ。19世紀の絢爛たる小説の数々。どれも大学時代に初めて読みましたが。

――どんなところがお好きですか。

イシグロ: 彼らはリアリストです。フィクションといえども我々が現実に住む世界に近似した世界を創り上げようとしました。彼らの作品は一旦読み始めると入り込んでしまう。その上彼らの心には、伝統的な手法でもってプロット、構成、キャラクターを作り、物語ることへの信頼がある。私は子供のころ本をあまり読まなかったので、確固とした基盤を作る必要がありました。シャーロット・ブロンテの『ビレット』や『ジェーン・エア』、ドストエフスキーの四大長篇、チェーホフの短篇小説、トルストイの『戦争と平和』、ディケンズの『荒涼館』、ジェーン・オースティンの六つの長篇小説の中からせめて五つ。これだけ読めば基礎固めとしては十分強固なものになります。また私はプラトンも好きです。

――それはなぜ?

イシグロ: 彼が著した「ソクラテス的対話」はだいたい決まったようなことしか起こりません。自分はすべてを知り尽くしたと思っている男が町を歩いている。そこにソクラテスが現れる。二人は腰掛ける。ソクラテスは男を論破する。――内容としては否定的なものに聞こえるでしょうね。しかし良き物の本質は簡単には見つけられないという思想がそこにはあります。ときどき人はその真面目さゆえに、間違っているかも知れない信念の上に全人生をゆだねてしまいます。それは私の初期の作品のテーマでもあります。自分は分かっていると思い込んでいる人々です。ソクラテス的人物は必要とされません。彼ら自身がソクラテスを兼ねているからです。
 プラトンの対話篇の一節でソクラテスが言う言葉です。
「理想主義者は二度か三度がっかりさせられると、しばしばそれだけで人間嫌いになる」
 善の意味を探し求めていると得てしてそうなるとプラトンはほのめかしてるのです。拒絶されても幻滅してはいけない。我々に分かっているのは、とにかく探求の道は困難だということです。我々は今でも探し求め続ける義務を負っているのです。

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 「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)」に戻る。

2011年10月 8日 (土)

スティーブ・ジョブズ・インタビュー 2003年12月

 10月5日、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズさんが亡くなりました。享年56。
 Windwosマシン以外のパソコンを使ったことがなく、アップルの製品も数えるほどしか買ったことのない私のような人間でも、彼のことを慕い、尊敬するということはあってもよいと思います。アップル・コンピュータが設立されてから30数年、どれだけ恩恵を蒙っていることか。今ある各種のコンピュータの技術は彼の思想があってこそのものだと思います。

 私がスティーブ・ジョブズに「ぐぐぐ」と興味がわいたのは、彼がボブ・ディランの海賊盤のコレクターだったというのを何かの記事で知ったときでした。素敵な話ではないですか。
 しばらく出典が分からなかったその記事が、今回調べたら見つかりました。アメリカの雑誌『ローリング・ストーン』のインタビューでした。追悼の意味を込めて急遽その記事の一部を訳しました。iTunes Store の発表(2003年4月)後半年くらいの間になされたインタビューなので、音楽が話題の中心を占めています。全文の翻訳は時間が作れたらやってみます。

Steve Jobs Interview

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「スティーブ・ジョブズ ~ザ・ローリング・ストーン・インタビュー」
(『Rolling Stone』 2003年12月3日号収録 ・ 抜粋)


――アップルはいつからミュージシャンたちと契約を始めるおつもりですか? つまりレコード・レーベルを立ち上げるのはいつか、ということですが。

スティーブ: ミュージシャンと契約することは極めて簡単なことだよ。でも成功している若いミュージシャンと契約することは極めて難しい。それはレコード会社がみんなやっていることだからね。彼らの価値は5000人の中から一人の逸物を拾い上げるところにこそあるわけだが、我々はそれはしない。
 レコード業界に起こるであろう構造的な変革は相当なもののはずだ。アーティストたちと話をしてみると大変な数の人間がレコード会社を嫌っていることがよく分かった。私はその理由が知りたくなったんだ。彼らがレコード会社を好まない一番の理由は、彼らが十分に成功しているのにもかかわらずほんのわずかな金しか稼げないという点だ。

――搾取されていると感じるわけですね。

スティーブ: もちろんだ。ところがその音楽を作っている会社が今、どれだけの金を生み出している? 金なんかどこにもないじゃないか。あの金はどこに行っちまったんだ? まるきりの無能だったって言うのか? 誰か100ドル札の札束をスーツケースに詰め込んでアルゼンチンに持ち逃げでもしてしまったのか? 一体何が起こってるんだ?
 原因は多くの人間と話をしたあとで分かったよ。私の結論はこうだ。若いアーティストと契約を結ぶとその際にかなりの額の前払金が支払われる。100万ドル、あるいはそれ以上。レコード会社はアーティストが成功したときに、支払った前払金の埋め合わせをするという仕組みになっている。
 ただね。彼らがいかに新人発掘の能力に長けていたとしても、彼らが釣り上げる人間の中で成功するのは10人に1人か2人だ。だからほとんどのアーティストからは、払った金の回収は不可能だということになる。その金はみんな損だというわけだ。それじゃ敗者たちの分は誰が払うんだい?

――キッド・ロックでしょうか。

スティーブ: 勝者が払うのさ。勝者は敗者のために払い続ける。そのために成功に見合った報酬など見たことがない。彼らがあわてふためくのも無理もない。では処方箋はどこかにないのか? 解決方法は? 処方箋はある。それは前払金を払うことを止めることだ。売上高から勘定すること。そしてアーティストにはっきり言うことだ。「私たちはあなた方に、入ってきたお金の中から1ドルにつき20セント差し上げましょう。その代わり前払金はもうなしです」と。
 会計はおかげでシンプルになるだろう。利益から払うんじゃない。収入を元にして支払うんだ。とてもシンプルだよ。成功すればそれだけお金もたくさん入る。成功しなければ一銭もお金は入らない。我々はこのまま行くと、マーケティングに伴う費用のリスクも負っているわけだから早晩消えてしまうかもしれない。しかし、成功しなければ金もないし成功すればたくさん金が手に入るというこの考え。これこそが解決策だ。ほかの世界でもそうすればうまく行くはずだ。

――レコード業界もそういう方向で進むとお考えですか。

スティーブ: そうは言っていないよ。私はそれが処方箋だと思うと言ってるだけだ。患者が薬を飲むかどうかはまた別の問題さ。

――次にご自身の音楽の好みについてお尋ねしたいと思います。ボブ・ディランの大変なファンでいらっしゃいますよね。ディランはあなたにとって何を意味しますか?

スティーブ: ディランは非常に明晰な思想家であると共に詩人だった。彼は見た物、頭に浮かんだ物をそのまま書いたんだと思う。初期の作品はとりわけ緻密で正確だ。彼が大人になるにつれ、解きほぐさないと分からないようなところがちょっとずつ出てくるけどね。しかし一旦糸がほぐれれば、鐘が鳴るようにすべてが明らかになる。
 先日「しがない歩兵」(Only a Pawn in Their Game)を聴いてたんだ。メドガー・エヴァーズが撃たれたとき、そのことを歌ったフォークソングは山のように書かれたのだけれど、ディランは注意深く、考えに考え抜いてあのきらめくような歌を作った。あの作品は彼がペンをとった頃と比べても今でも同じくらいの輝きを保っている。

――いつディランを発見したのですか。

スティーブ: 私をディランに導いたのはスティーブ・ウォズニアックだ。私がたぶん・・・ああ、13か14のときだったと思う。ふたりは最後には世界中のあらゆる海賊盤のテープを持っている男と出会った。ボブ・ディランの会報紙の発行までしている男だったね。本当に入れ込んでいたな。彼の人生すべてがボブ・ディランに関するものだった。しかし彼の持っているブートレグ(海賊盤)は最高だった。今日手に入るリリースされたどの作品よりも素晴らしかった。驚くべき代物だ。それゆえ私たちふたりの部屋はコピーしたボブ・ディランのテープで溢れ返っていたよ。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 インタビュー記事の全文は、2011年10月現在PDFファイルで読むことができます。



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