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2011年9月 6日 (火)

カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)

 以前グレン・キャンベルの "By the Time I Get to Phoenix" を訳したときの回(第31回)で、小説家のカズオ・イシグロさんのインタビューを訳してご紹介したことがありました。カズオ・イシグロは1954年に長崎市で生まれ5歳のとき家族と共にイギリスへ渡ります。そこからイギリスに住み続け、現在までに6冊の長篇と1冊の短篇集を発表しています。
 前回紹介したものとは別のインタビューの翻訳を2回に分けてお届けします。『The Paris Review』というアメリカで発行されている季刊誌がインタビューしたものです。これはインターネットで読むこともできます。
 誤訳等いたらぬ点がありましたら、ご一報頂けるとさいわいです。

Kazuo Ishiguro - A PALE VIEW OF HILLS

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「カズオ・イシグロ・インタビュー ~ The Art of Fiction 第196回」 (1/2)
(『THE PARIS REVIEW』 2008年春号収録)


――あなたは創作をこの世に発表してすぐに成功を収めましたね。でもそれよりも前に若い頃に書いた作品はあるのではないですか? たとえ活字にはならなくても。

イシグロ: 大学を出たあと私はウエスト・ロンドンでホームレスの人たちに関わる仕事をしていました。その頃ラジオの30分番組用の台本を書いてBBCに送ったんです。採用はされませんでしたが反応はよかったです。後味がいささか悪かった。最初の部分は子供向けの読み物としても成り立つのでそこなら誰が読んでも構わなかったんですけど。題名は『じゃがいもと恋人たち』(Potatoes and Lovers)といいました。ただ、原稿を送る段になって私はじゃがいもの綴りを間違えてしまいました。だから本当は「Potatoes」ではなく「Potatos」と書くんです。
 フィッシュ・アンド・チップスの店で働く二人の若い男女の物語です。彼らは共にひどい斜視の持ち主で、二人は恋に落ちますが、自分らが斜視である事実は決して認めません。二人の間でそれは語られてはならないことでした。語り手が奇妙な夢を見たあとに二人が結婚をあきらめるところで物語は終わります。こんな夢です。海岸の桟橋からある家族が彼に向かって駆け寄って来る。父親も母親も斜視、子供も斜視、おまけに犬までも斜視。彼は言います。わかった、僕らは結婚するべきじゃないんだと。

――その作品を書こうと思ったのはなぜですか?

イシグロ: 自分が何で身を立てるべきかそろそろ考え始めた頃でした。ミュージシャンの道は? この夢は叶いませんでした。何人ものレコード会社のA&Rマンと約束を取り付けるところまで行きましたが、2分後には決まってこう言われました。「だめだよ。これじゃ何ともならない」。それだからラジオの台本でもやってみようかと思いました
 そのときです。ほとんど偶然でした。マルカム・ブラッドベリさんがイースト・アングリア大学で指導している創作学科の小さな募集広告に出会ったのは。
 創作科は今日では有名なコースとなりましたが、当時はいかにもアメリカ人的な発想に思えました。ばかげているとさえ思いました。続いてそのコースは前の年には開かれなかったことも分かりました。志願者が十分にいなかったのです。誰かが私に言いました。イアン・マキューアンが10年前にそこのクラスを受けてたぞ、と。その時点における若手の作家の中で最も刺激的な作家は彼だと私は思っていました。そのことも確かに関係していますが、いちばん興味を引かれたのは一年間大学に戻れるという点でした。しかも授業料は満額で政府から出ました。結局入学するには30ページ分のフィクションを提出さえすればよかったので、私は例のラジオの台本を願書に添えてマルカム・ブラッドベリのもとへ送りました。
 自分が受け容れられたと知ったとき少々面食らいましたね。突然現実のものとなったからです。私の書いた物は解剖するみたいにして調べ上げられ、私は恥さらしになるだろう。そんなふうに思いました。そしてある人が、かつて麻薬中毒患者の更正施設だったところがコーンウォールのどこだかにあって、そこがコテージとして貸し出し中だと教えてくれました。私は電話で言ってあったんです。「一か月こもる場所が必要になった。独学で書くことを覚えなくてはならない」と。それが1979年の夏に私がやったことです。そのとき初めて短篇小説の構造について真面目に考えました。視点だとか物語の紡ぎ方といったものをつかむまで何年も費やしました。結果として私は二つの作品を書き上げ、非常な安心を得ました。

――あなたが初めて日本について書いたのもイースト・アングリア大学に在学中のことですか。

イシグロ: そうです。自分をとりまく世界から離れたときに想像力が急に羽ばたくことを私は発見しました。例えばこんな書き出しで始めたとします。「カムデンの地下鉄の駅を出てマクドナルドに入ると、そこに大学時代の友人のハリーがいた」・・・その次にはもう何を書いたらいいか見当がつかなくなってしまうのです。ところが日本について書けば何かが解き放たれるんです。私がクラスで発表した作品のひとつに、原爆が投下されたときの長崎を舞台にしたものがありました。ある若い女性の視点から描かれた物語です。クラスの学生たちは私が抱いている確信に対して最大限後押ししてくれました。彼らはこぞって言いました。「これはほんとにすごいよ。最高だ。君はきっと成功するよ」
 そしてフェイバー・アンド・フェイバー社から、新人紹介の叢書に私の短篇を三篇選びたいという旨の手紙が届きました。当時非常に実績のあったシリーズです。トム・ストッパードもテッド・ヒューズもそこから世に出たことを私は知っていました。

――『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)を書き始めたのはその頃ですか?

イシグロ: はいそうです。フェイバー・アンド・フェイバー社のロバート・マクラムさんから前払い金をもらい、そのおかげで書き上げることができました。コーンウォール州のとある町が舞台の、情緒不安定な子供を持つ、背景のはっきりとしない若い女の物語。私の心の中にいるその女性は「子供にすべてを捧げよう」と言ったかと思えば、「あの人とついに恋に落ちてしまった。この子は邪魔な物でしかないわ」と言ったりします。その間を絶えず揺れ動きます。ホームレスの現場で働いていたとき私はこういう人たちをたくさん目にしました。
 その頃クラスメイトから例の日本物の短篇について大変な賞賛の声を受けました。私はこのコーンウォールを舞台にした小説を見直すことにしました。そこで気がついたんですね。物語を日本に置き換えれば、窮屈で小さく思えたものも広大な世界に響き渡らせることができると。

――あなたは5歳からあと一度も日本に戻ったことはなかった。でもご両親は典型的な日本人の方なんですよね?

イシグロ: 私の母はその世代における、まさしく典型的な日本の女性でした。ある一定の礼儀作法を身に付けていました。今日の基準から言えばフェミニストが日本に誕生する以前の女性です。古い日本の映画を見ると、登場する女性たちの多くが母とまったく同じような振る舞いと話し方をすることに気付きました。日本の女性は伝統的にフォーマルな言葉遣いをしていました。男とはいささか異なります。それが近年では相当なところまで混じり合っています。母は80年代に日本を訪れたとき、若い女性たちが男言葉を使っているので唖然としたと私に言っていました。
 原子爆弾が落とされたとき母は長崎にいました。当時十代の後半でした。家はゆがんだ程度で済んだそうです。しかし雨が降って初めて被害の甚大さに気付きました。いたるところで雨漏りがし始め、雨が竜巻のように落ちて来ました。そんなことがあったわけですが、母は家族の中で――4人のきょうだいと両親です――原爆で傷を負った唯一の人間でした。飛んできた瓦礫に当たったのです。助けを求めて家族が町の別の場所に出かけている間、母は家にいて回復につとめていました。
 でも彼女は言うんです。戦争について考えるとき本当に怖かったのは原爆じゃないと。働いていた工場の地下にあった防空壕での出来事が忘れられないと言います。暗闇の中で人々は並び、爆弾はその真上に落ち続けました。みんな死ぬんだと人々は思いました。
 父は上海で育ったためぜんぜん日本人らしくはありませんでした。中国人的な気質のせいなのか、彼は悪いことが起こるとにっこり微笑むのです。

――ご両親はなぜイギリスへ移住されたのですか?

イシグロ: 初めは短い出張くらいのつもりだったようです。父は海洋学者で、英国国立海洋研究所の所長が父を招聘したのです。高潮の運動に関係した発明を追求してもらうためにです。それが何なのか今もってよく分かりませんけど。国立海洋研究所は冷戦中に設立され、秘密めいた空気がありましたね。彼は森の奥にあるその場所に勤務しました。私は一度だけ行ったことがあります。

――移住することについてはどうお感じになりましたか。

イシグロ: 意味するところは理解してなかったと思いますよ。祖父が長崎のデパートで私に大きなおもちゃを買ってくれたことがありました。ニワトリの絵と鉄砲があって、ニワトリを目がけて発射した弾が当たると卵がぽろんと落ちてくるおもちゃです。そのおもちゃを持って行けなかったこと、何しろそれがいちばんがっかりしたことだったわけですから。旅はBOACのジェット機で三日かかりました。覚えているのは、座った姿勢でがんばって眠ろうとしたこと、グレープフルーツを持って来てくれた人がいたこと、給油のために着陸するたびに起こされたことなどです。以来19歳になるまで飛行機に再び乗ることはありませんでした。
 しかしながら私はイギリスにいて不幸だと思った記憶はありません。もっと歳をとっていたならば事態は難しいものになっていたと思いますが。それに言葉で苦しんだ覚えもありません。そのための授業など一度も受けなかったのにもかかわらず。私はカウボーイの映画やTV番組が好きだったので、そこから英語を少しずつ学んで行きました。特に好きだったのはロバート・フラーとジョン・スミスが出ていた『ララミー牧場』。日本でも有名な『ローン・レンジャー』もよく見ました。私は、「はい」(Yes)と言う代わりに「そうとも」(Sure)と答えるカウボーイたちを偶像視していました。学校の先生に言われるんですね。「カズオくん、あなたはどういうつもりで『そうとも』って言うの?」
 ローン・レンジャーの喋り方と聖歌隊の指揮者の喋り方は違うことに気がつかなければならなかった。

――ギルドフォードはどう思われましたか?

イシグロ: 私たちが到着したのはイースターの時期でした。十字架にくぎで打ちつけられ血を流している男の凄惨でサディスティックな姿に、母は度肝を抜かれました。そして子供たちにもお構いなしに見せていました。日本人の観点から見れば、あるいは火星人の目から見たとしてもそれはほとんど野蛮人の行為でした。私の両親はキリスト教徒ではありません。イエス・キリストを神だとは思わない人たちです。でも彼らは礼節をもって周りと接していました。ちょうど見知らぬ部族に客人として招かれたときは誰でもそこの慣習を尊重するのと同じように。
 ともかく私には完全に違って見えました。田園風景と質素でモノクロームな世界、そして濃い緑。おもちゃなんかどこにもありません。ところが日本はくらくらするくらい「イメージ」が氾濫し、いたるところに電線があります。ギルドフォードは静かな場所でした。モーリーおばさんという親切な女性に連れられて、お店でアイスクリームを買ったことを覚えています。そんなような店は見たことがありませんでした。がらんとしていてカウンターには一人しか人がいない。それから二階建てバスですね。最初の数日間はバスに乗り続けました。あれはぞくぞくしたなあ。狭い路地をバスが通るとき垣根(hedge)の上に乗り付けているような気持ちがしたものです。このことをハリネズミ(hedgehog)に結びつけて考えたことを覚えていますよ。ハリネズミって何かご存じですか?

――イギリスの典型的な齧歯類では?

イシグロ: 近頃は田舎の方でも見かけなくなっています。ことによったら絶滅してしまったかも。でも私らが住んでいたところにはどこにでもいました。姿はヤマアラシに似ています。もっともヤマアラシと違って性質は獰猛ではありません。とても愛らしい動物です。彼らは夜になると活発に動き出すのでよく轢かれていました。針の付いている何だか小さい物と飛び散った内蔵をよく外で見ました。道路の脇の排水路にきれいに片付けられたりもしていました。これには戸惑いました。私はぺちゃんこになった死骸を見ていると、道路をぎりぎりに通っていくあのバスのことを連想せずにはいられませんでした。

――子供のころ本はたくさん読まれましたか。

イシグロ: 日本にいたころは「月光仮面」と呼ばれるスーパーヒーローがたいへんな人気でした。絵本に書かれてある彼の冒険譚のイメージを頭にたたき込むべく、私はよく本屋で立ち読みしたものでした。そうして家に帰ってから自分で絵を描き始めるのです。母親に頼んで絵を全部綴じてもらったらちゃんと本のようになりました。
 けれどギルドフォードでは、子供のころ英語の本で読んだものはおそらく学習用の漫画だけだったと思います。イギリスの子供たちに向けた教育書ですね。電気をどうやって作っているかとかその手のことについて書かれた本です。面白くはなかったです。私は好きになれませんでした。日本にいる祖父から送られるものに比べると色に乏しかった。学習向けの本なら今でも日本のものが断然生き生きしていると思います。優れたダイジェストで、その中のいくつかは純粋に娯楽作品としても耐えうります。漫画と鮮やかなイラストに縁どられた文章。ひとたび本をめくれば補助教材のようなものはお呼びではなくなります。
 それらの本を通じて私は、私の知らない間に日本で有名になったキャラクターに気付き始めました。ジェームズ・ボンドの日本版といった感じの人物です。彼はイアン・フレミングの原作にもショーン・コネリーのボンドにもちっとも似てないくせに、なぜかジェームズ・ボンドと呼ばれていました。漫画のキャラクターである彼に私は夢中になりました。一方中産階級の良識ある人々は、ジェームズ・ボンドを、現代社会から生じる悪をすべて体現した人間とみなしました。彼らにしてみれば最低な映画だったんです。粗野な言葉が使われ、主人公はモラルのかけらもなく、紳士とは到底思えない方法でもって人々を殴り倒し、ビキニを着た女性はひとり残らず彼と一夜を共にすることが示唆されている。だから子供のときにこういった映画を見ると学ぶようになります。ジェームズ・ボンドが別に文明社会を汚しているとは思わない大人がいるんだな、と。しかし彼は日本では教育的な、いわば承認された文脈の中で人々の前に現れたわけです。そのことは私に両者の考え方がたいへん異なることを教えてくれました。

――学校では何か書くことはされましたか。

イシグロ: しましたよ。私が通った地元の小学校では現代的な教育手法が実験的におこなわれていました。時は60年代半ばで、私の学校は決められた授業を持たないことに深い愉悦を感じていたようです。手動の計算機をいじくり回して遊んでもいいし、粘土で牛を作ってもいいし、物語を書いてもよかったのです。特に書くことが私は好きでした。それが社交的な場でもあったからです。生徒は何かちょっと書くと、すぐに互いのものを読み回し朗読するのです。
 私はミスター・シニアというキャラクターを作りました。その名前は友人のボーイスカウトの隊長の名前から取りました。スパイとしては最高にいかした名前だと思いました。それからです。私はシャーロック・ホームズに激しくのめり込みました。ヴィクトリア朝の探偵小説を模したものを書きました。依頼者が訪ねてきて長い話をするところから始まるタイプのものです。でも我々のエネルギーの大半は、店頭で見かけるペーパーバックに自分たちの本をいかに似せて作るかということに費やされました。表紙には弾痕を描いて、裏表紙には新聞から切り取った文字を貼り付けました。〝目が覚め、身も凍るばかりの緊張感〟とかね。『デイリー・ミラー』などにありがちな。

――作家としてのあなたにその経験が影響を与えているように思われますか。

イシグロ: そのときはただただ楽しく、何の造作もなく物語を考えることができました。それはずっと続いたんだと思う。物語を作り出さなくてはならないという考えに脅かされたことはありませんでした。リラックスした環境でおこなえばたいていのことはみな楽になるものです。

――さて次にとりこになったものは何ですか。探偵小説のあとに。

イシグロ: ロック・ミュージックです。シャーロック・ホームズのあと20代の前半まで本を読むことを止めてしまいました。でも5歳のときから私はピアノを弾いていたので、15歳になったときにギターを弾き始めました。ポップスのレコードを聴き始めたのは――11歳くらいでしたかね。ポップスと言っても実におぞましいものだったわけですけれど、私はそれらを素晴らしいと思いました。最初にとても好きになったレコードはトム・ジョーンズが歌った「思い出のグリーングラス」でした。トム・ジョーンズはウェールズの人なんですが「思い出のグリーングラス」はカウボーイの歌です。私がテレビで知っていたカウボーイの世界を彼は歌に込めて歌っていました。
 父が日本から買ってくれたソニーのオープンリールの小型デッキを私は持っていました。それでラジオのスピーカーから直接テープに録るんです。ダウンロード・ミュージックの原形ですね。ざーざーと音が入ってひどい録音でしたけれど私はそこから歌詞を聴き取ろうと努力しました。13歳のとき『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を買いました。発売されてすぐに買った、私にとって初めてのディランのアルバムです。

――ボブ・ディランのどこが気に入りましたか?

イシグロ: 詞ですね。ボブ・ディランが偉大な作詞家であることは私にはすぐに分かりました。当時の私は、何が良い詞で、何が良いカウボーイ映画かという二つの点については鉄壁の自信がありました。ディランが「意識の流れ」や超現実的な詞との最初の出会いだったかも知れません。それからレナード・コーエンを発見しました。彼は作詞に文学的なアプローチを持ち込んだ人で、それまでに二冊の小説といくつかの詩集を発表していました。ユダヤ人であるにもかかわらず彼の使う比喩はとてもカトリック的です。多くの聖人たちと聖母たち。彼はまたシャンソン歌手のようでもありました。
 私はミュージシャンがそれ自体で完全な存在たり得るという考え方に惹かれました。自ら歌を書き、自ら歌を歌い、編曲まで行うのです。私はこれだと思い、歌を書き始めました。

――あなたの最初の歌は何ですか?

イシグロ: レナード・コーエンに似た感じの歌です。歌い出しは確か、「君の瞳、再び開くことなからん。僕らが共に暮らし遊んだあの海辺で」。

――それはラブ・ソングですか。

イシグロ: ディランとコーエンの作品が人々に訴えかけるのは、彼らの歌が何についての歌だか分からない点にいくらか起因しています。人は自己表現をするときに苦しむわけですが、我々はいつも、十全に理解してない物事であっても理解しているふりをしなければならないという問題に直面します。若いときはそんなものですよね。ほとんどの時間をその葛藤の中で生きるのです。素直には認め難いことですけど。ともかく、このような状況を形にしてあらわしたのが彼らの歌なんだと思います。

――19歳。あなたが再び飛行機に乗った年ですがどこへ行かれたのですか?

イシグロ: アメリカに行きました。それはかねてから強く望んでいたことでした。というのもアメリカの文化にどっぷり浸かってましたから。ベビー用品の会社で働いてお金を貯めました。ベビーフードを詰めたり、「四つ子誕生」だとか「帝王切開」だとかいったタイトルの損害賠償対策用の8ミリフィルムをチェックしたり。そんな仕事です。
 1974年の4月、当時最も安かったカナダの飛行機に乗って行きました。バンクーバーに着いてからグレイハウンド・バスに乗り、真夜中に国境を越えました。1日に1ドルで旅をしながら3か月向こうにいました。その時代は誰しもそういった行動に対しロマンチックな考え方を持っていました。毎晩寝る場所について考えなければならなかった。つまりどこかに転がりこむってことですけどね。西海岸にはそのためのネットワークがヒッチハイクをする若者の間で広がっていました。

――あなたはヒッピーだったんですか?

イシグロ: そうだったと思いますよ。少なくとも表面的には。長髪に口ひげ、ギターにリュックサック。皮肉なことに私たちは全員自分が個性的な存在だと思っていました。私はパシフィック・コースト・ハイウェイでヒッチハイクをしました。ロサンジェルスを通ってサンフランシスコ、そして北カリフォルニアを隈なく旅しました。

――経験全体を通してどのようなことをお感じになりましたか。

イシグロ: それらは私に期待以上のものを満たしてくれました。神経をすり減らすこともままありましたけれど。
 あるときワシントン州から貨物列車に乗って、アイダホを通ってモンタナまで行きました。私はミネソタ出身の男と一緒にいたのですが、その夜私と彼はある使命を帯びていました。薄汚れた場所のドアの前で服を脱いで、その他大勢の酔っ払いと共にシャワー室に入らなければなりませんでした。つま先立ちで黒い水たまりを避けて通ると、先方は我々のために洗い立ての寝間着と寝台を用意していました。翌朝、いかにも昔ながらといったタイプのホーボーたちと貨物置き場に向かいました。彼らは、中産階級の学生と現実逃避者たちから成るヒッチハイカーの文化圏とはまるで関係がなかった。貨物列車で移動し、どや街からまた別の場所のどや街へと渡り歩くのです。血液を売って暮らし、アルコール中毒で貧しくて病気がちでその上ひどい身なりをしていました。ロマンチックな要素はひとかけらもありません。しかし彼らは我々に多くの良きアドバイスを与えてくれました。
「動いている列車から飛び降りようとするな。死にたくなければ。君が乗っている有蓋車に誰か乗り込んで来たら、構わず投げ落とせ。君はそんなことしたら殺してしまうと思うかもしれないが、なに問題ない。あいつらはきっと何か盗みたがる。だから列車が止まるまでの間ずっとひっついていろ。もし眠ったら、50ドル持っているというだけの理由で君は放り出されるぞ」

――その旅を題材にして書かれたことはありますか。

イシグロ: 私はケルアックの文章のパスティーシュみたいなスタイルで日記をつけていました。毎日書いていました。「36日目。誰それと会う。これこれをした」というふうなものを。
 家に戻ると私はその分厚い日記を取り出し、そこから二つのエピソードを徹底的に書き出しました。もちろん一人称で。
 ひとつはサンフランシスコでギターを盗まれたときのこと。構造について考え始めたのはそれが初めてでした。大西洋の向こう側で仕入れた、変わった訛りを文章に取り込んだわけですが、自分がアメリカ人でないこともありそれはまがい物のように感じました。

――あなたの中のカウボーイの側面が出たんですかね。

イシグロ: その痕跡はありますね。アメリカ人のアクセントには何かしびれるものがあったんです。語彙についてもそうです。高速道路のことを「モーターウェイ」と言う代わりに、「フリーウェイ」と言ったり。「フリーウェイまでどれくらいありますか?」と誰はばかることなく言えるのが嬉しかったですね。

――青年時代のあなたにはパターンのようなものがあるように見受けられます。何かを偶像視しますよね。するとそれとそっくりに真似をします。最初はシャーロック・ホームズでした。次にレナード・コーエン。そしてジャック・ケルアック。

イシグロ: 青春期はそんなふうにものを学んで行くんですよ。ただしソングライティングは模倣に甘んじてはならない領域のものです。私はそのことはよく分かっていました。
 誰かがギターを弾いているそばを友人たちと並んで通ったとします。そしてそれがボブ・ディランみたいな感じだった場合、我々はあからさまに軽蔑しました。何と言っても自分自身の「声」を見つけ出すことがすべてだったのです。友人も私も自分らが英国人であることに非常に意識的でした。アメリカ的な歌を忠実に書くことなどできるわけがないのですから。
 “オン・ザ・ロード”と言うとき、その人の頭の中にはハイウェイ61号線が思い浮かんでいるはずです。英国のM6号線ではなく。
 音の響きとしては同じなんだけれど、いかにもイギリス的だと感じさせる言葉を獲得する――これが私たちの挑戦でした。霧雨が降る中、どこかの寂しい道で立ち往生していたのなら、そこはあのアメリカの伝説的なフリーウェイではありません。キャデラックにも乗っていません。スコットランドとの州境にある灰色の環状交差点のわきで彼はたたずむのです。

――経歴によるとあなたは雷鳥狩りの勢子(せこ)もされていたそうですが。説明して頂けますか。

イシグロ: 卒業後の最初の夏、私はバルモラル城でエリザベス皇太后(クイーン・マザー)のために働きました。王室が夏の休暇地として過ごす場所です。狩りのときに獲物を追い出す役目の人間、すなわち勢子を当時は地元の学生の間から募っていました。王室は狩りをするとき人々を自分らの地所に招待します。皇太后と来賓はウイスキーとショットガンをランドローバーに載せて、荒地を突き進みます。シューティング・バット(訳注・岩で囲まれた小さな砦のようなもの)で獲物を撃ってはまた次のシューティング・バットへ移動します。我々雇われ人の一団15人は隊列を組み、ヘザーの木から100ヤードほどの間隔を空けながら歩いて行きます。雷鳥はヘザーに住んでいて、我々が近づく音を聞くとぴょんぴょん飛びはねます。シューティング・バットに着くまでには付近にいる雷鳥はみな重なるようにして集まり、皇太后一行は銃を構えて待ちます。シューティング・バットの周りに隠れる木はどこにもないため、雷鳥は飛んで逃げるよりほかはありません。そこを撃つのです。で、また次の狩り場へ移動します。ゴルフみたいなものです。

――皇太后とはお会いになりましたか。

イシグロ: ええ。その間は常に会っていましたよ。ただ、私たちの宿舎に現れたときは女の子が何人かと男は私しかいなくて、そのときは流石に縮み上がりました。どうしたらいいのかぜんぜん分からず。少し会話をしてから皇太后はまた車で帰りました。でもそこにはとてもくだけた雰囲気がありました。荒地に行けば姿はときおり見かけます。皇太后が自ら銃を撃つことはありませんけどね。お会いしたときはみんなで結構な量のアルコールを消費したと思います。みんな打ち解け合うことができました。

――そんな世界に足を踏み入れたのは初めてだったでしょう?

イシグロ: そんな世界に足を踏み入れたのはそれが最後です。

――どう思われましたか。

イシグロ: 確かに面白い体験でしたが、私はそれよりもあの地所を管理する人々の世界に惹きつけられました。「ギリー」と呼ばれる狩りの案内人です。彼らは地元出身の学生ですら理解できないスコットランド訛りの言葉を話していました。タフな人たちで荒地のことをとてもとてもよく知っていました。大学生というせいもあって彼らは私たちに対して恭しく接してくれました――少なくとも実際に狩りが始まるまでは。
 絶対に隊列を崩さないようにするのが彼らの役目でした。私たちのうち誰か一人でも列からはみ出ると、それが雷鳥が逃げ出すきっかけとなるのです。そうでもしようものなら彼らは突然怒り猛った曹長に様変わりし、崖をかけ登り、ひどいスコットランド訛りで私たちを罵ります。それこそ頭が吹っ飛ぶような勢いで叫ぶのです。「このおたんこなす!」とか。でも崖の上から降りればまたいつもの礼儀正しい彼らに戻ります。

――大学生活はどんな感じでしたか。

イシグロ: ケント大学では英語と哲学を学びましたが、英国王室からベビー用品を経て貨物列車に至るあの日々に比べると大学は退屈に感じました。で、一年経ってさらにもう一年休学することにしたんです。グラスゴーの近くにあるレンフルーという場所に行って、6か月間公営団地の福祉専門員のボランティアをしました。到着したばかりの頃私は本当に途方に暮れました。南イングランドの中産階級の家庭でずっと育ったからでしょう。そこはスコットランドの工業地帯の中枢で、しかも製造業は衰退の一途にありました。こじんまりとした典型的な団地街で、大通りは二本しかなく、人々は二つの派閥に別れお互いを憎み合っていました。その地域の第三世代に当たる人たちと、強制退去させられ他の土地から突然やって来た人たちとの間に緊張が生まれていました。政治はもちろんそこでも息づいていましたが、それは本物の政治でした。学生の政治とは天と地ほどの差がありました。私たちがやっていたのは、近年のNATOの動きに対して抗議をするべきか否かを討論するような類いのものだったので。

――その経験はあなたにどんな影響をもたらしたのでしょうか。

イシグロ: 私はそれから随分と大人になりました。どれもこれも「ぶっ飛んでる」の一言で片付けながら時速100マイルでぴゅーっと駆け抜けるような人間になることは止めたのです。アメリカを旅していたとき、「何のバンドに入っているか」と「どこから来たか」の次に訊かれる三番目の質問は「人生の意味は何だと思うか?」でした。それで意見交換して疑似仏教の奇妙な瞑想の仕方を教えてもらったりしました。禅とオートバイのメンテナンスの技術が同時に回ってくるんです。禅の本など誰もまともに読んでいませんでしたが、言葉の響きがかっこよかったんですね。スコットランドから戻ると私はそこから抜け出て成長しました。私が見たのは、その種のことが何の意味もなさない世界でした。もがき苦しんでいる人々。多量の酒とドラッグ。勇気を出して物事に取り組む人もいましたが、途中であきらめることはとても簡単なことでした。

――では文章を書くことについてはどんなことが起こっていましたか。

イシグロ: 当時本について語る人はいませんでした。話すことと言ったらテレビドラマや小劇場、映画、ロック・ミュージックなどです。
 その頃マーガレット・ドラブルの『黄金のイェルサレム』を読みました。すでに19世紀の著名な小説も読み始めていましたが、私はドラブルの作品を読んで、昔の小説の技法でも現代の物語を描くことができるという確信を得ました。ですから『黄金のイェルサレム』は疑いなくひとつの啓示だったのです。老婆を殺害するラスコーリニコフやらナポレオン戦争についてわざわざ書く必要はありません。身の周りにある出来事を小説に書けばいいのです。とは言うものの、私もひとつ書いてみようとしたんですがうまく行きませんでした。ひどい代物でしたね。頭の中ではちゃんとできてたんです。イングランドを放浪しながらひと夏を過ごす若い大学生の物語です。パブでの会話、女友だちに男友だち・・・。

――そこがあなたの作品の特徴的な点のひとつですね。ごく普通に行われていること、つまり自らの体験をフィクション化することをあなたはしなかった。現代のロンドンの生活だとか、英国に住みつつ日本人の家庭で育った経験だとかについては書かれませんでした。

イシグロ: いやいや、実際はやってみたんですよ。でもいまひとつ気が乗らなかった。私の中心命題は依然として歌を書くことにあったからです。歌でもって同じ分野に乗り上がろうと思ってたんです。

――最初に出版された小説である『遠い山なみの光』に話を戻しましょう。今はどうお考えですか?

イシグロ: たいへん気に入っていますよ。しかしそれでも内容は不可解に過ぎたと思っています。結末は判じ物のようですし。あそこまで読者を当惑させても芸術的な面で得るものは何もないでしょう。単純な経験不足でした。どこがあからさま過ぎて、どこが微妙な点であるかを見誤りました。その時でさえ結末は不満に感じていましたが。

――あなたが成し遂げたかったことは何だったのですか。

イシグロ: ええっと、そうですね。誰かが共通の友人について話していたとしましょう。彼は付き合いの上での友人の優柔不断さについて腹を立てています。もう完全に激怒しています。それを見てあなたは察するのです。彼は友人の状況について話しているけれど本当は自分自身のことを語りたいんだな、と。これは小説を書き著すときに面白い手法になると思いました。痛みを伴い過ぎるかあるいは臆病すぎるかで自分の人生はとても語れないと自覚する人物がいたら、彼には他人の物語を語ってもらえばいいのです。私は長い間ホームレスの人たちと共に働いて過ごしました。そして彼らの打ち明け話に耳を傾けました。どうしてこんな場所に来なくてはならなくなったのか? しかしそのうちに私は、彼らが実は率直に話を語ってないことを敏感に感じるようになりました。
 『遠い山なみの光』の語り手は中年後期の女性で、成人した娘は自殺しています。このことは小説の冒頭で知らされるわけですが、語り手は自殺に至るまでの経緯を説明しないまま、第二次世界大戦直後の長崎で知り合ったある友人との交流を回想し始めます。読者はこう思うだろうと思いました。「何だって俺たちはこんな関係ないこと聞かされなくちゃならないんだ?」「娘が自殺したというのにこの母親は何も感じないのか?」「だいたい娘はどうして自殺したんだよ?」
 読者は語り手自身の物語は友人の話を通じて語られていることに徐々に気がついてくれるだろうという望みがありました。しかし私は質感に溢れた回想シーンを描く術がまだ分からなかったので、仕掛けのようなものに頼らざるを得ませんでした。終盤で日本の場面が現在起こっている場面がだんだん溶け合って互いの境界線がわからなくなるところがそれです。今でも私は最新作のイベント絡みで話をするときに人から訊かれます。
「あの二人の女性は実は同じ人物なんじゃないですか。最後橋の上で悦子が佐知子の娘の万里子に問いかける場面で、〝あなた〟を〝わたしたち〟に置き換えたらどうなるのでしょう?」

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 「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (2)」に続く。



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コメント

バルちゃん・・あはは、長かったさ・・sweat01
あんまり関係ありませんが・・
私のOvation のギターはグレンキャンベルモデルですpaper

そうですよね。いやはやという感じですよね。
しかし第2回もこれと同じくらいの分量があります。9月中に訳し終えることができるかどうか・・・。

グレン・キャンベル・モデルというのちょっと調べてみました。
へえ~グレン・キャンベルがアイデア出して作ってもらったんですね。

ところで先日お話にあった「オリジナル全10曲入り」がどこにも見当たらないというのはほんとうなんですか? 真剣に探せばどこかから出てくると思います。

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  • ROLLING TECHNICIAN BLOG
    「未だ転がるおっさん」こと、てつさんの愛とロックとお酒のブログ。マラソンのお話も楽しいです。
  • Bee Gees Days
    「ファン歴合計○百年」のビージーズ・ファンによる、ビージーズの我が国いちばんのファンサイト。
  • しあわせのはっぱ +心葉+
    てつさんのブログを通じてご縁ができました。テーマは「最愛の人とすごす記憶の積み重ね」です。
  • Walk On The Backstreets
    私よりも少し早く訳詞と音楽の紹介のブログを始めた、Backstreetsさん。良い歌をたくさん訳してらっしゃいます。ローラ・ニーロはいつか私も・・・。
  • TUMBLING TETSU
    てつさんのブログは2011年9月から母屋が変わりました。こちらのブログです。
  • comme d'habitude ...
    ダンスの先生で、フランス語が堪能で、美人のDDさん。「セブンと遊ぼう」のコーナーが最高です!
  • Just on the Way
    ドイツ在住のodyssee314さんのブログです。私が訳したレナード・コーエンの「スザンヌ」を紹介して下さったのがきっかけで、ご縁ができました。
  • 木蔭のアムゼル
    30年以上前にドイツに移住されたodyssee314さん。こちらは別のお名前で以前管理されていたブログです。当地の風景がひたすら美しい。
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