2014年6月12日 (木)

閉鎖のお知らせ(すみません)

2009年から書き続けていたこの訳詞のブログも、ついに閉鎖することとなりました。
メールアドレスはそのまま使用できる状態においておきますので、ご意見ご要望等ありましたらお気軽にご連絡下さい。または書き込みして下さい。

hosi様。ヴァーヴの“Bitter Sweet Symphony”の「I can't change my mold」のくだりの件でお返事いたします。御指摘どおりとなると(たぶんそう)、キメの台詞がまったく正反対の意味になってしまい、こまってしまってわんわんだなと思ってぐずぐずしていたら、ブログの管理会社(ココログです)から内容が不適切との知らせが入り、こんな次第となりました。

いも様。「青い影」の訳をたいへんお褒めにあずかり恐縮です。またお返事が遅れてたいへん申し訳ありませんでした。millerは「カンタベリー物語」の粉屋とつながっていると思いますよ。あーしかしぼけぼけしてるんじゃなかった。

青山要介様。なーんにも更新してないこのブログにいつもエルヴィスのことを書いて下さりありがとうございます。“Gentle on My Mind”を訳したかったけど、ついに果たせなかったです。

雨のち苺様。ナット・キング・コールの“Nature Boy”を私は「天然の少年」と訳しましたが、もっといい言葉があったようにも思えます。
「人生においていちばん大事なことはね。人を愛し、人から愛し返されることなんだ。それを僕らは学ばなくちゃいけない」
これを2回繰り返すというのが、ふつうじゃないなと思います。ハルさんという友人もこの歌が好きだと言っていました。

これまで皆様から頂いたリクエストの数も7~8つくらいあったように記憶していますが、みんな反古にしてしまいました。まことに申し訳なく思います。

2011年10月19日 (水)

カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (2)

 9月6日に書いた「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)」の続きです。誤訳や意味の分かりづらい部分がありましたらご一報下さい。よろしくお願い致します。

Kazuo Ishiguro - NEVER LET ME GO

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「カズオ・イシグロ・インタビュー ~ The Art of Fiction 第196回」 (2/2)
(『THE PARIS REVIEW』 2008年春号収録)


――創作科のプログラムは作家になるための手助けになったと思われますか。

イシグロ: 考えたら私がなりたかったのはソングライターだったんです。ところがドアは開いてくれなかった。結果私はイースト・アングリア大学に行き、学友たちに励まされ、そこから数か月足らずで雑誌に短篇を発表し、最初の長篇小説の出版契約を結ぶに至りました。確かに創作科で学んだことは技術的な面で助けになりましたよ。私には人々の耳目を引く文章を書く能力はないと感じていました。書いているものはごくありきたりの文章です。私の良きところは草稿の段階で現れると思っています。草稿を読み返しているときに次回の作品に関係するアイデアがどんどん浮かぶのです。
 マルカム・ブラッドベリの次に現れた指導者がアンジェラ・カーターでした。私にとって重要な存在です。彼女からはビジネス面について多くを教わりました。今も私のエージェントを務めているデボラ・ロジャーズを紹介してくれたのも彼女です。またアンジェラはグランタ社のビル・バフォードに私の作品を送りました。何も言わずに。
 当時カーディフにアパートを借りて住んでいました。ある日台所にあった公衆電話が鳴ったとき、ちょっとおかしな話なのですがこう思ったんです。「公衆電話が鳴っている。じゃ、先方の男はビル・バフォードだな」と。

――二作目の長篇小説『浮世の画家』(An Artist of the Floating World)は、戦時中軍国主義寄りの立場をとったことが幽霊のように主人公の画家につきまとうという話でした。この作品は何にインスピレーションを得たのでしょうか?

イシグロ: 『遠い山なみの光』には、老教師がそれまでに築いた価値観を考え直すことを迫られるというサブプロットがありました。私はこの男についてひとつ本格的な小説を書いてみたいと思いました。たまたまある時代に生きているというだけの理由でキャリアのすべてを汚されることになる画家の物語です。
 そして『日の名残り』(The Remains of the Day)はその二作目がきっかけとなって生まれました。『浮世の画家』を読み返したときに思いました。「キャリアの点から見れば無駄に費やした人生を私はテーマとして選んだ。テーマの追求という点で言えば今回の作品は十分に満足している。だが個人的な生活の方はどうなる?」と。若いときは何でもキャリアと結びつけて考えるものです。後になってそれは人生の一部に過ぎないと悟るわけです。
 私はそれらを全部ひっくるめたものをもう一度書いてみたいという気持ちになっていました。どうやって人はキャリアの点で人生を無駄にし、個人的な領域において人生を無駄にするのかを。

――日本は小説の舞台にもはや適していないと判断された理由は何ですか。

イシグロ: 『日の名残り』を書き始めるまでに自分の書きたいことの本質は場所がどこであっても変わらないことに気付いたのです。

――そこにイシグロさんの際だった特徴があると思います。ある種カメレオン的な能力が備わっていると見るべきでしょう。

イシグロ: いや、そんなにカメレオン的だとは思わないな。私が言いたかったのは同じ本を3回も書いてしまったということなんです。それでも何とかうまくやりおおせしました。

――そうおっしゃいますが、最初の二作品を読んだ読者が次に『日の名残り』を読むとサイケデリックな気分を味わうんじゃないでしょうか。あの説得力のある日本の舞台からいきなりダーリントン卿の地所へ飛んでしまうわけですから。

イシグロ: それは最後のものを最初に読むからですよ。本質は舞台設定の中にはありません。少なくとも私にとっては。ただそうでないケースがあることは私も知っています。プリーモ・レーヴィの作品などは、舞台設定を取り除いたら本自体を捨ててしまうのと同じことになります。最近私は北極を舞台に置き換えたすばらしい『テンペスト』を観劇しました。ほとんどの作家は意識的に判断して書く部分と、意識せずに書いてしまう部分のふたつを持っています。私の場合、語り手と舞台の選択は念入りに行います。特に舞台に関しては細心の注意をもって選ばなくてはなりません。様々な感情と過去の歴史の〝残響〟は舞台設定と共にもたらされるからです。でもあとでいわば即興演奏ができるような余地を大きく残しておきます。例えば今ちょうど書いている小説ですが舞台は奇妙なところに落ち着きました。

――どんなところへ?

イシグロ: それについてはあまり話したくはありません。初期の段階で書いていたものを例に挙げますからその話をさせて下さい。
 ここしばらくずっと小説に書きたかったことがあります。社会それ自体がどのようにして記憶を保ち、忘れていくかについてです。個人が不愉快な思い出とどう折り合いを付けていくかについてはすでに書いたのですが、そのときあることに思い当たりました。個人の記憶と忘却の仕方は社会が行う場合とは全く異なることに。忘れるのにより良い時期というのはあるのか? この問題は何度も頭の中をかけめぐりました。
 第二次世界大戦後のフランスが興味深いケースです。ド・ゴールは、
「我々にとって必要なのは国が再び元のように動くことだ。かつて誰と手を組んだのか。組まなかったのは誰か? それについてあまり思い悩むのは止めよう。自己省察は次の時代の人々に任せようではないか」
 と言いました。多くの人は彼の言ったことは正しかったと主張するかもしれません。しかし一方で、そのせいで正義は十分に果たされなくなり結局それはより厄介な問題を生んだだけだと考える人もいます。これはむしろ精神分析医が感情を抑圧している人に向けて言う言葉ですね。もし仮に私がフランスについて書くとしたらその本はまさしくフランスをテーマにした本になるでしょう。ヴィシー政権の専門家たちと対峙せざるを得なくなる自分の姿を想像しました。「それであなたは何が言いたいんですか?」「何のかどで私たちを糾弾するのですか?」等々問い詰められることになるでしょう。実際そんなことをしたらもっと大きなテーマを書きあらわすことを余儀なくされます。
 もうひとつの選択がスター・ウォーズ的戦略です。〝遙か銀河系の彼方で・・・〟というやつです。『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)はその方向で行きました。それ自体が挑戦になりますが。ともかく私は今述べた問題をずっと抱えていました。

――結局どうされたのですか。

イシグロ: ひとつの解決方法が西暦450年の英国を小説の舞台に置くことでした。ローマ人が去ってアングロ・サクソン人の支配が始まると、それはケルト人のせん滅を導きます。ケルト人に一体何が起こったのか誰も分かりません。彼らは姿を消してしまいました。大虐殺、せん滅がそのとき行われました。時を遡れば遡るほど物語は隠喩的に読まれるようになります。人は映画の『グラディエーター』を見るときそれを現代の寓話として解釈するわけです。

――『日の名残り』の舞台がイギリスに定まったのはどのような経緯で?

イシグロ: 始まりは妻のジョークからでした。その日一作目の小説についてのインタビューをするためにジャーナリストが自宅に来ることになっていました。それで彼女はこう言ったのです。
「その人が真面目なしかつめらしい質問をして来たら、あなた、私の執事のふりをするというのはどう? 可笑しくていいんじゃない」
 私たちはそれを面白い発想だと思いました。以来私はメタファーとしての執事に取り憑かれることになりました。

――何のメタファーでしょうか?

イシグロ: 二つあります。ひとつは我々が感情を殺し、ある種凍結してしまうことのメタファーです。イギリスの執事はおそろしいほど控えめでなくてはなりません。また周囲で起こるどんなことに対しても個人的な反応は示してはなりません。英国人気質を掘り下げるだけではなく、我々にみな共通する部分、すなわち他人に深入りすることの恐れを描くには格好の方法に思えました。
 もうひとつは、大きな政治的な決断を他人に委ねてしまう人々の象徴としての執事です。彼は言います。「私にできることは主人に仕えるためにベストを尽くすことです。代理人を通じて社会に貢献をしていますが、私自身は大きな決断は下すつもりはありません」と。私たちの多くは、民主主義の社会に生きているいないにかかわらずそのような立場に立っています。私たちのほとんどは大きな決定がなされるところの住人ではありません。私たちは自らの仕事をし、それに誇りを抱き、そのささやかな貢献が上手に利用されることを願っています。

――あなたはジーヴズ(訳注・イギリスの作家P・G・ウッドハウスが造形したキャラクター)のファンでしたか。

イシグロ: ジーヴズからの影響は大きいです。ジーヴズに限らず、映画の目立たないところで演じられてきた執事の姿、身のこなし、すべてから影響を受けています。彼らにはそこはかとない面白みがありました。どたばた喜劇的なユーモアではありません。普通なら気も狂わんばかりの表現を必要とされるような場面であっても彼らはそっけない台詞を口にするだけです。そこには哀愁も漂っていました。そしてその頂点にいたのがジーヴズです。
 その頃までには非常に意識的に海外の読者に向けて書こうと考えていました。思うに反発があったのではないでしょうか。先行する世代が書いた英国の小説にはある種自覚的な局地主義(パロキアリズム)が見られました。それに対する反発です。思い返すとそのときが転換点だったかどうかは分かりません。でも我々の仲間の間では、自国の読者だけではなく海外に向けて発信しなくてはならないという意識がありました。こうすれば可能だと思った手法のひとつが、世界的に知られているイギリスの神話を取り入れることでした。この場合はイギリスの執事ということになります。

――調査はたくさんされましたか。

イシグロ: はい。しかし召使い自身によって書かれた文献のあまりの少ないことを知って驚きました。第二次世界大戦の直前まで相当多数の人たちが雇われ従事していたはずなのに。自分たちの人生が書くに値すると思ってる人たちはほんの一握りなんですね。びっくりです。ですからあの小説で描かれている、執事の心得や一連の作法のほとんどは頭の中で作ったものです。スティーヴンズは「職務計画」(staff plan)という言い方をしますがこれも私が作った言葉です。

――『日の名残り』も含めあなたの小説の中心人物はみな、悲劇的なまでにわずかな差で恋愛のチャンスを逃してしまいます。

イシグロ: わずかな差で逃してしまうんでしょうか。私には分かりません。案外大差で逃している可能性もありますよ。彼らは過去を振り返ったとき思うのかもしれません。「あの瞬間が変わり目だった。あのときを境にすべてが違っていたはずだ」と。あるいは、小さな運命のいたずらに過ぎなかったんだと思いたがるかもしれません。でも実際は巨大な力によって、愛だけでなく人生に欠くことのできない他の物まで取り逃しているものなのです。

――そのようなキャラクターが次々と登場するのはなぜだとお考えですか?

イシグロ: 自分自身を精神分析してみなくてはなぜかは分かりませんね。けれどもし作者が自作に繰り返し現れるテーマについてきちんとその理由を説明し始めたら、そんな作者の言うことは信じてはだめですよ。

――『日の名残り』はブッカー賞を受賞しました。成功は何か変化をもたらしましたか?

イシグロ: 『浮世の画家』を出版したとき私は未だ無名の作家として暮らしていました。それが出版してから約半年後にブッカー賞の候補作に選ばれると一夜にして状況は変わりました。作品は結局ウィットブレッド賞を受賞しましたが、私が留守番電話を買うことを決めたのもその時です。知らない人が突然私たちを夕食に誘ったりしました。すべてに対してイエスと言う必要はないのだと理解するまでにしばらくかかりました。そうでもしないと人生はコントロール不能になってしまいます。3年後ブッカー賞を受賞する頃にはやんわりと人の申し出を断る仕方を身に付けていました。

――作家の生活にはプロモーション活動も含まれています。ツアーやインタビュー、そういったものは執筆に影響を及ぼすものですか?

イシグロ: 二つの点ではっきりと影響を受けます。ひとつは働いている時間の3分の1はそれで取られてしまうということ。もうひとつは、洞察力に優れた人々がインタビュアーだったするとこれまたたいへんな時間を割かねばならなくなることです。「あなたの作品に三本足の猫がいつも出てくるのはなぜ?」とか「鳩のパイに対するオブセッションは何を意味してるんですか」とか。作品に流れ込んでくるものの多くは無意識的なものです。いろいろ言われましたが、そういったもののイメージから受け取る感情の残響までは分析されなかったと思います。
 ブックツアーに出ると物事が同じように進むとは限りません。昔はできるだけ正直にオープンに接するのがより良いことだと思っていました。しかしそこから受けるダメージを目にするようになりました。頭がもみくちゃにされる作家もいます。心を不当に侵害されたと感じ、結果的に怒りにかられるようになります。それが小説の書き方に影響を与えないわけはありません。机に向かうと、書く前に「俺は現実主義者である。そして同時にある種の不条理主義者でもあるのだ」などと考えたりするんですよ。ますます自意識が過剰になって行きます。

――執筆中に「こう書いたら翻訳者に迷惑がかかるかも知れない」と考えることはありますか。

イシグロ: 世界の様々な地域に自ら赴くと、文化的な面でどうしても訳せないものがあることに気付かされます。デンマーク人に一冊の本を説明するのにときどき何日もかかったりもします。ブランド名やその他文化的な基準点になるものを使うのを私が好まないのは、単にそれらが地理的な問題で移し替えることができないからではありません。時間と共に移し替えができなくなるからです。30年も時が経てばその手の言葉は何の意味もなくなります。ただ別の国の人々のために書くのではありません。別の時代の人々に向けて書いているのです。

――書くことは規則的にされていますか。

イシグロ: たいてい朝10時から書き始めて6時くらいで終えます。4時頃まではEメールも電話も無視するようにしています。

――コンピュータはお使いになりますか。

イシグロ: 二つ机があるのですが、ひとつにはライティング・スロープ(訳注・傾斜のついた台)があってもうひとつの方にコンピュータが置いてあります。コンピュータは1996年から使い始めました。ただしインターネットには繋いでいません。第一稿はライティング・スロープの上でペンを使って書く方が私には性に合います。私の手から離れた場合それが誰にでも判読できるようなものだったら困るな、とは思います。最初の草稿はしっちゃかめっちゃかです。文体や統一性、そういった類いのことには一切注意を払いません。片端から紙の上に書き留めることが大事なのです。以前使ったアイデアとそぐわない新しいアイデアが突然ひらめいたら一応それも付け加えます。振り返ることができるようにノートに書き溜めてあとでみんな整理します。それから全体のプランを立てます。章の数を決め、位置を前後に移動させます。第二稿に着手するまでには、自分がどこに向かっているのか前よりも明確なイメージを持っています。この辺りに来くれば筆の運びはすごく慎重になります。

――通常草稿はいくつくらい書かれるのですか。

イシグロ: 第三稿を超えることは滅多にありません。そうは言いましたが、個々に何度も書き直さなければならない箇所はあります。

――イシグロさんのように処女作から三作目まで続けて高い評価を得られる作家は極めてまれです。しかしついに『充たされざる者』(The Unconsoled)が世に出ました。今ではあなたの最高傑作と考える批評家もいますが、批評家の多くは「これまでに読んだ中で最低の作品だ」という発言を残しています。それについてどう思われますか?

イシグロ: 論争の場に自分も飛び込もうかとよっぽど思いましたね。本がまだ三冊しか出ていなかった頃私の作物に対する批判があったとすれば、おそらくそれは「大胆さに乏しい」というものでした。私はこれについては多少なりとも真実が含まれていると感じていました。『ニューヨーカー』に『日の名残り』の批評が載ったことがあります。全編に渡って非常に熱烈な批評だったように思いますが、こんなことが書かれていました。「この作品の問題点はすべてが時計じかけのように動いている点である」と。

――つまり完璧すぎると。

イシグロ: ええ。私の中にはだらしなさとか大胆不敵さがないと言うんでしょうね。すみずみまでコントロールされているというわけです。でもふつう人は、完璧すぎるという理由で批判されるだなんて思いもよりませんよ。まったくね、批評なんてそんなものです。しかしその批判の言葉は私が感じていたことに何かこだまするようでした。私はひとつの小説をとことん手直しし磨き上げる方でしたから、当時は自信のないことでも無性にやってみたい気持ちにかられていました。
 『日の名残り』を出版したすぐあとのことです。妻と私は大衆食堂の片隅に座って、世界の読者に向けた小説をどう書くべきか議論をしていました。普遍的なテーマを何とか見つけ出そうとしていました。すると妻が「夢の言語こそは世界共通の言語だ」と指摘しました。どんな文化圏に生まれようと、誰であってもそれは一致する点だと。続く何週間かのうちに段々と考えがまとまり始めました。はて、夢の文法は何だろう?
 たった今、妻と私は部屋にいて会話をしている。家には自分らを除いて誰もいない。その場面に第三者が登場することになる。順当に行くならまずドアのノックがあり、誰かが入って来る。そして我々はこんにちはと挨拶をする。だが「夢の心」はその種のことに我慢がならないわけです。部屋でふたりきりで座っていたら、突然第三者が真横にいることに気付く。そうかずっと前からいたんだな・・・と、こうでなくてはなりません。直前まで人の存在に気付かなかったことに軽い驚き程度のものはあるかも知れませんが、その人物が提示するものに向かって疑いもなくまっすぐ進んで行きます。それがどんなものであったとしても。
 これは面白い、と思いました。そのときどきの感情的な欲求に従って記憶と夢は巧みに操られます。このことを念頭に入れながら記憶と夢の類似点を探り始めました。また私は、読者に私の書いたものを特定の社会に対する論評としてではなく、あくまで隠喩的な物語として読んでもらいたいと願っています。おそらく夢の言語はそのような書き物を著すことを可能するでしょう。数か月間ひたすらメモを取りました。メモで一杯になったファイルがさらに積み上がったところで、ようやく小説を書く準備が整ったなと感じました。

――書き始めたときにはプロットはもう決めてらっしゃいましたか。

イシグロ: 二つのプロットがありました。不幸にも離婚寸前の親のもとで育ったライダーという男の物語。それがひとつです。彼の頭の中では、両親が仲直りするかどうかは自分が彼らの期待にそえられるかどうかにかかっています。その結果、最終的にライダーは卓越したピアニストになります。意義のある重要なコンサートを開けばすべての傷は癒やされると考えますが、時既に遅し、です。両親の間に起こったことは何であれ、遙か昔に起こったことなわけですからね。
 そしてもうひとつがブロツキーという老人の物語です。最終幕で彼はめちゃくちゃにしてしまった人間関係を修復しようとします。指揮者という立場からそれをやり遂げられれば、生涯の恋人をもう一度取り戻せると考えています。その二つの物語はひとつの世界の中で起こります。そこでは、社会的な災厄はみな、間違った音楽の価値観を選んだ結果だと信じられています。

――困惑気味の批評家に対しどんな対応の仕方をされましたか。

イシグロ: 私は何も曖昧にすることに固執したわけではありません。むしろあの小説くらい明瞭な小説はないと思っています。夢のロジックに従うと一旦決めた以上、あのときは力の及ぶ限り明瞭であろうと努めました。夢の中ではひとつのキャラクターはしばしば別の人物に取って代わられます。小説に使ったことで混乱を生じたことは分かっています。しかしだからと言って、『充たされざる者』については一行も変えるつもりはありません。それがその当時の私にほかならないからです。『充たされざる者』は何年もかかってやっと落ち着くべき所に落ち着きましたね。これまでに他のどんな小説よりも数多く尋ねられて来た小説です。
 ブックツアーをまわっている間、特にアメリカの西海岸なんかですと夜の部は『充たされざる者』の時間にまるごと捧げなくてはなりません。学者たちも私の作品について書くときはこの小説にいちばん多くのページを割いています。

――次に出たのが『わたしたちが孤児だったころ』(When We Were Orphans)です。イギリス人の探偵であるクリストファー・バンクスが上海から失踪した両親にまつわる謎を解き明かそうとする物語です。

イシグロ: 『わたしたちが孤児だったころ』は、特定の時代と場所を舞台にしたものを書きたかった頃に生まれた数少ない作品のうちのひとつです。私は30年代の上海に魅せられていました。今日の国際都市の原型である上海。小さな区域に様々な民族がひしめきあっている都市。
 祖父はそこで働いていました。そして父もそこで生まれました。80年代に父は、祖父が上海で暮らしていた頃の写真やアルバムを持ち帰ります。会社の写真がたくさんありました。天井に備え付けられた扇風機の下で人々は白いスーツを着て座っている・・・まるで別の世界です。父からはいろいろな話を聞かされました。拳銃をしのばせた祖父に召使いにお別れを言いに行くから来いと言われ、いっしょについて行くとそこは日本人の立入禁止区域で召使いは癌で死の床にあった、とか。随分と想像力をかきたてられました。
 それから私は探偵小説をずっと書きたいと思っていました。シャーロック・ホームズに代表される英国人の探偵の人となりは、英国人の執事のそれとたいへん似通っています。思索的なところ。義務に忠実というよりもむしろ職業上の役割にとらわれている感じ。心を通い合わせられないところ、などなど。『充たされざる者』の音楽家のように主人公の個人的な世界は破綻していますが、そこには何かがあるんですね。クリストファー・バンクスの頭の中では、両親の謎を解決することと第二次世界大戦を止めさせることの間にあるものが奇妙にもすべて抜け落ちている。そのおかげで両者の問題は直結してしまっているのです。このおかしなロジックこそが『わたしたちが孤児だったころ』の中心に流れるものであり、私がこだわった点です。私たちの心の底には、子供だったときと同じ視点で物事を見ているもう一人の自分があります。それについて書いてみたかったのですが、思ったようにはうまく行きませんでした。最初にあったコンセプトは、ジャンル小説を小説内小説として書いてみることでした。私はバンクスに本筋とは別のところで、アガサ・クリスティばりの事件の謎を解明させようとしました。しかし結局それも途中で放り投げてしまいました。約一年かかりきりでしたから109ページもあったんですが。『わたしたちが孤児だったころ』くらい大変だった本はほかにありません。

――『わたしを離さないで』も頓挫した別のバージョンがいくつかあると聞いています。

イシグロ: はい。学生の物語を描くというのが元からのアイデアでした。人間の寿命が80から突然30に引き下げられた世界に直面する若者たちの物語です。巨大なトラックに積まれた核兵器が夜の間にあちこちに運ばれるところに出くわすことによって、ある意味彼らに将来はないことが示される。そういう筋書きを考えていましたが、結局は学生たちをクローンにすることで決着が着きました。なぜ寿命が限られているかという問いに対して私が用意した答えは「SF」でした。
 読む人が「人間であることに一体どんな意味があるのか」と思わずにはいられなくなることが、クローンを使うことの効果であり魅力のひとつです。「魂とは何か?」というドストエフスキーの愛読者の間で繰り返し問われて来た設問に、非宗教的な角度から道を付けたと私は思っています。

――寄宿学校を舞台とすることに特別関心があったのですか?

イシグロ: 子供時代のメタファーとしてちょうどいいんです。寄宿学校では、学校の管理者が子供たちが知っていることと知らないことを広い範囲でコントロールできる状況にあるでしょう。それは現実に私たちが自分らの子供に接していることとそんなに違わないように思えたのです。いろいろな意味で、子供たちは泡の中で育つのです。私たちはその泡の形を維持しようと努力します。おそらくまったく形を変えずに。そして不快なニュースから子供たちを守ります。それがあまりに徹底しているものだから、小さな子供を連れて歩くときにすれ違う人々でさえ、その謀議に加担することになるのです。道端で口論をしていたら止めます。「大人は喧嘩をする」という程度の悪いニュースであっても子供の目には触れさせたくないのですから、拷問の事実などなおさら言うわけがありません。寄宿学校はそのような現象を具現化したものなのです。

――イシグロさんは、批評家の多くが指摘するようにこの作品を非常に暗いものとしてお考えですか。

イシグロ: 実はですね。『わたしを離さないで』は「元気の出る」小説だといつも思っていました。過去において私は登場人物の様々な欠点について書きました。それは自分自身に対する警告でもあったし、また作品自体が〝人生いかに生きないべきか〟についての本でもあったわけです。
 『わたしを離さないで』によって、人間のプラスの面に焦点を合わせることを初めて自分に許したのだと実感しました。確かにあそこに出てくる人たちは欠点が多いかもしれない。嫉妬深く、狭量で、一般の人々と同じような振る舞いをしがちかもしれない。でも私はあの三人に基本的に慎み深くあってほしかった。残された時間はあとわずかだと悟ったときでも、地位や物を所有することに心を奪われてほしくなかった。私が彼らに求めたのは、お互いを思いやること、そして物事をあるべき形に直していくことでした。私たちの道徳心が荒廃していると言うのなら、私としてはそれに対抗する意味であの本を書いたつもりです。人間についての肯定的な面があそこには書かれています。

――題名はどのように選ばれるのですか。

イシグロ: 子供に名前を付けるようなものです。ああでもないこうでもないと悩み続けます。私が付けていないものも結構あるんですよ。例えば『日の名残り』がそうです。
 私は作家のフェスティバルに出るためにオーストラリアにいました。マイケル・オンダーチェ、ヴィクトリア・グレンディニング、ロバート・マクラム、それからオランダの作家のジュディス・ヘルツベルクらと浜辺に座って、完成間近だった私の小説の題名を考えるために冗談とも本気ともつかないゲームをしていました。マイケル・オンダーチェは『サーロイン ―あるジューシーな物語』がいいと言ったり(訳注・juicy には「そそられる」「興味をかきたてられる」という意味もある)。まあそんなレベルだったわけです。おかげで私は、この話は執事と関係のある話なんだよと何回でも言わなくてはなりませんでした。そのときジュディス・ヘルツベルクが「Tagesreste」というフロイトの用語をふと口にしました。フロイトが夢の話をするときに用いる言葉で、「日中の残骸」といった意味があります。ジュディス・ヘルツベルクはその場の思い付きで「日の名残り」(remains of the day)と訳し、それがそのまま題名になりました。作品の雰囲気から言ってもそれがぴたりとはまるように思えました。
 次の小説は二つの選択肢がありました。「充たされざる者」(The Unconsoled)と「ピアノ・ドリームズ」(Piano Dreams)です。かつて、私たちの娘に相応しい名前はナオミであると言って私と妻を説き伏せた友人がいました。私たちが「アサミ」と「ナオミ」の間で引き裂かれそうになっていたとき、友人は「アサミはサダムとアサドを足して二で割ったような感じに聞こえるな。だいいち、アサドはシリアの独裁者じゃないか」と言ったのです。
 さてその男が言うことには、
「ドストエフスキーなら『充たされざる者』を選んだかもしれん。しかしエルトン・ジョンなら『ピアノ・ドリームズ』を選んだろう」
 そういうわけで私は「充たされざる者」に決めました。

――実際あなたはドストエフスキーのファンでらっしゃいますよね。

イシグロ: はい、もちろん。ディケンズ、オースティン、ジョージ・エリオット、シャーロット・ブロンテ、ウィルキー・コリンズ。みんなファンですよ。19世紀の絢爛たる小説の数々。どれも大学時代に初めて読みましたが。

――どんなところがお好きですか。

イシグロ: 彼らはリアリストです。フィクションといえども我々が現実に住む世界に近似した世界を創り上げようとしました。彼らの作品は一旦読み始めると入り込んでしまう。その上彼らの心には、伝統的な手法でもってプロット、構成、キャラクターを作り、物語ることへの信頼がある。私は子供のころ本をあまり読まなかったので、確固とした基盤を作る必要がありました。シャーロット・ブロンテの『ビレット』や『ジェーン・エア』、ドストエフスキーの四大長篇、チェーホフの短篇小説、トルストイの『戦争と平和』、ディケンズの『荒涼館』、ジェーン・オースティンの六つの長篇小説の中からせめて五つ。これだけ読めば基礎固めとしては十分強固なものになります。また私はプラトンも好きです。

――それはなぜ?

イシグロ: 彼が著した「ソクラテス的対話」はだいたい決まったようなことしか起こりません。自分はすべてを知り尽くしたと思っている男が町を歩いている。そこにソクラテスが現れる。二人は腰掛ける。ソクラテスは男を論破する。――内容としては否定的なものに聞こえるでしょうね。しかし良き物の本質は簡単には見つけられないという思想がそこにはあります。ときどき人はその真面目さゆえに、間違っているかも知れない信念の上に全人生をゆだねてしまいます。それは私の初期の作品のテーマでもあります。自分は分かっていると思い込んでいる人々です。ソクラテス的人物は必要とされません。彼ら自身がソクラテスを兼ねているからです。
 プラトンの対話篇の一節でソクラテスが言う言葉です。
「理想主義者は二度か三度がっかりさせられると、しばしばそれだけで人間嫌いになる」
 善の意味を探し求めていると得てしてそうなるとプラトンはほのめかしてるのです。拒絶されても幻滅してはいけない。我々に分かっているのは、とにかく探求の道は困難だということです。我々は今でも探し求め続ける義務を負っているのです。

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 「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)」に戻る。

2011年10月 8日 (土)

スティーブ・ジョブズ・インタビュー 2003年12月

 10月5日、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズさんが亡くなりました。享年56。
 Windwosマシン以外のパソコンを使ったことがなく、アップルの製品も数えるほどしか買ったことのない私のような人間でも、彼のことを慕い、尊敬するということはあってもよいと思います。アップル・コンピュータが設立されてから30数年、どれだけ恩恵を蒙っていることか。今ある各種のコンピュータの技術は彼の思想があってこそのものだと思います。

 私がスティーブ・ジョブズに「ぐぐぐ」と興味がわいたのは、彼がボブ・ディランの海賊盤のコレクターだったというのを何かの記事で知ったときでした。素敵な話ではないですか。
 しばらく出典が分からなかったその記事が、今回調べたら見つかりました。アメリカの雑誌『ローリング・ストーン』のインタビューでした。追悼の意味を込めて急遽その記事の一部を訳しました。iTunes Store の発表(2003年4月)後半年くらいの間になされたインタビューなので、音楽が話題の中心を占めています。全文の翻訳は時間が作れたらやってみます。

Steve Jobs Interview

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「スティーブ・ジョブズ ~ザ・ローリング・ストーン・インタビュー」
(『Rolling Stone』 2003年12月3日号収録 ・ 抜粋)


――アップルはいつからミュージシャンたちと契約を始めるおつもりですか? つまりレコード・レーベルを立ち上げるのはいつか、ということですが。

スティーブ: ミュージシャンと契約することは極めて簡単なことだよ。でも成功している若いミュージシャンと契約することは極めて難しい。それはレコード会社がみんなやっていることだからね。彼らの価値は5000人の中から一人の逸物を拾い上げるところにこそあるわけだが、我々はそれはしない。
 レコード業界に起こるであろう構造的な変革は相当なもののはずだ。アーティストたちと話をしてみると大変な数の人間がレコード会社を嫌っていることがよく分かった。私はその理由が知りたくなったんだ。彼らがレコード会社を好まない一番の理由は、彼らが十分に成功しているのにもかかわらずほんのわずかな金しか稼げないという点だ。

――搾取されていると感じるわけですね。

スティーブ: もちろんだ。ところがその音楽を作っている会社が今、どれだけの金を生み出している? 金なんかどこにもないじゃないか。あの金はどこに行っちまったんだ? まるきりの無能だったって言うのか? 誰か100ドル札の札束をスーツケースに詰め込んでアルゼンチンに持ち逃げでもしてしまったのか? 一体何が起こってるんだ?
 原因は多くの人間と話をしたあとで分かったよ。私の結論はこうだ。若いアーティストと契約を結ぶとその際にかなりの額の前払金が支払われる。100万ドル、あるいはそれ以上。レコード会社はアーティストが成功したときに、支払った前払金の埋め合わせをするという仕組みになっている。
 ただね。彼らがいかに新人発掘の能力に長けていたとしても、彼らが釣り上げる人間の中で成功するのは10人に1人か2人だ。だからほとんどのアーティストからは、払った金の回収は不可能だということになる。その金はみんな損だというわけだ。それじゃ敗者たちの分は誰が払うんだい?

――キッド・ロックでしょうか。

スティーブ: 勝者が払うのさ。勝者は敗者のために払い続ける。そのために成功に見合った報酬など見たことがない。彼らがあわてふためくのも無理もない。では処方箋はどこかにないのか? 解決方法は? 処方箋はある。それは前払金を払うことを止めることだ。売上高から勘定すること。そしてアーティストにはっきり言うことだ。「私たちはあなた方に、入ってきたお金の中から1ドルにつき20セント差し上げましょう。その代わり前払金はもうなしです」と。
 会計はおかげでシンプルになるだろう。利益から払うんじゃない。収入を元にして支払うんだ。とてもシンプルだよ。成功すればそれだけお金もたくさん入る。成功しなければ一銭もお金は入らない。我々はこのまま行くと、マーケティングに伴う費用のリスクも負っているわけだから早晩消えてしまうかもしれない。しかし、成功しなければ金もないし成功すればたくさん金が手に入るというこの考え。これこそが解決策だ。ほかの世界でもそうすればうまく行くはずだ。

――レコード業界もそういう方向で進むとお考えですか。

スティーブ: そうは言っていないよ。私はそれが処方箋だと思うと言ってるだけだ。患者が薬を飲むかどうかはまた別の問題さ。

――次にご自身の音楽の好みについてお尋ねしたいと思います。ボブ・ディランの大変なファンでいらっしゃいますよね。ディランはあなたにとって何を意味しますか?

スティーブ: ディランは非常に明晰な思想家であると共に詩人だった。彼は見た物、頭に浮かんだ物をそのまま書いたんだと思う。初期の作品はとりわけ緻密で正確だ。彼が大人になるにつれ、解きほぐさないと分からないようなところがちょっとずつ出てくるけどね。しかし一旦糸がほぐれれば、鐘が鳴るようにすべてが明らかになる。
 先日「しがない歩兵」(Only a Pawn in Their Game)を聴いてたんだ。メドガー・エヴァーズが撃たれたとき、そのことを歌ったフォークソングは山のように書かれたのだけれど、ディランは注意深く、考えに考え抜いてあのきらめくような歌を作った。あの作品は彼がペンをとった頃と比べても今でも同じくらいの輝きを保っている。

――いつディランを発見したのですか。

スティーブ: 私をディランに導いたのはスティーブ・ウォズニアックだ。私がたぶん・・・ああ、13か14のときだったと思う。ふたりは最後には世界中のあらゆる海賊盤のテープを持っている男と出会った。ボブ・ディランの会報紙の発行までしている男だったね。本当に入れ込んでいたな。彼の人生すべてがボブ・ディランに関するものだった。しかし彼の持っているブートレグ(海賊盤)は最高だった。今日手に入るリリースされたどの作品よりも素晴らしかった。驚くべき代物だ。それゆえ私たちふたりの部屋はコピーしたボブ・ディランのテープで溢れ返っていたよ。

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 インタビュー記事の全文は、2011年10月現在PDFファイルで読むことができます。



2011年9月 6日 (火)

カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (1)

 以前グレン・キャンベルの "By the Time I Get to Phoenix" を訳したときの回(第31回)で、小説家のカズオ・イシグロさんのインタビューを訳してご紹介したことがありました。カズオ・イシグロは1954年に長崎市で生まれ5歳のとき家族と共にイギリスへ渡ります。そこからイギリスに住み続け、現在までに6冊の長篇と1冊の短篇集を発表しています。
 前回紹介したものとは別のインタビューの翻訳を2回に分けてお届けします。『The Paris Review』というアメリカで発行されている季刊誌がインタビューしたものです。これはインターネットで読むこともできます。
 誤訳等いたらぬ点がありましたら、ご一報頂けるとさいわいです。

Kazuo Ishiguro - A PALE VIEW OF HILLS

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「カズオ・イシグロ・インタビュー ~ The Art of Fiction 第196回」 (1/2)
(『THE PARIS REVIEW』 2008年春号収録)


――あなたは創作をこの世に発表してすぐに成功を収めましたね。でもそれよりも前に若い頃に書いた作品はあるのではないですか? たとえ活字にはならなくても。

イシグロ: 大学を出たあと私はウエスト・ロンドンでホームレスの人たちに関わる仕事をしていました。その頃ラジオの30分番組用の台本を書いてBBCに送ったんです。採用はされませんでしたが反応はよかったです。後味がいささか悪かった。最初の部分は子供向けの読み物としても成り立つのでそこなら誰が読んでも構わなかったんですけど。題名は『じゃがいもと恋人たち』(Potatoes and Lovers)といいました。ただ、原稿を送る段になって私はじゃがいもの綴りを間違えてしまいました。だから本当は「Potatoes」ではなく「Potatos」と書くんです。
 フィッシュ・アンド・チップスの店で働く二人の若い男女の物語です。彼らは共にひどい斜視の持ち主で、二人は恋に落ちますが、自分らが斜視である事実は決して認めません。二人の間でそれは語られてはならないことでした。語り手が奇妙な夢を見たあとに二人が結婚をあきらめるところで物語は終わります。こんな夢です。海岸の桟橋からある家族が彼に向かって駆け寄って来る。父親も母親も斜視、子供も斜視、おまけに犬までも斜視。彼は言います。わかった、僕らは結婚するべきじゃないんだと。

――その作品を書こうと思ったのはなぜですか?

イシグロ: 自分が何で身を立てるべきかそろそろ考え始めた頃でした。ミュージシャンの道は? この夢は叶いませんでした。何人ものレコード会社のA&Rマンと約束を取り付けるところまで行きましたが、2分後には決まってこう言われました。「だめだよ。これじゃ何ともならない」。それだからラジオの台本でもやってみようかと思いました
 そのときです。ほとんど偶然でした。マルカム・ブラッドベリさんがイースト・アングリア大学で指導している創作学科の小さな募集広告に出会ったのは。
 創作科は今日では有名なコースとなりましたが、当時はいかにもアメリカ人的な発想に思えました。ばかげているとさえ思いました。続いてそのコースは前の年には開かれなかったことも分かりました。志願者が十分にいなかったのです。誰かが私に言いました。イアン・マキューアンが10年前にそこのクラスを受けてたぞ、と。その時点における若手の作家の中で最も刺激的な作家は彼だと私は思っていました。そのことも確かに関係していますが、いちばん興味を引かれたのは一年間大学に戻れるという点でした。しかも授業料は満額で政府から出ました。結局入学するには30ページ分のフィクションを提出さえすればよかったので、私は例のラジオの台本を願書に添えてマルカム・ブラッドベリのもとへ送りました。
 自分が受け容れられたと知ったとき少々面食らいましたね。突然現実のものとなったからです。私の書いた物は解剖するみたいにして調べ上げられ、私は恥さらしになるだろう。そんなふうに思いました。そしてある人が、かつて麻薬中毒患者の更正施設だったところがコーンウォールのどこだかにあって、そこがコテージとして貸し出し中だと教えてくれました。私は電話で言ってあったんです。「一か月こもる場所が必要になった。独学で書くことを覚えなくてはならない」と。それが1979年の夏に私がやったことです。そのとき初めて短篇小説の構造について真面目に考えました。視点だとか物語の紡ぎ方といったものをつかむまで何年も費やしました。結果として私は二つの作品を書き上げ、非常な安心を得ました。

――あなたが初めて日本について書いたのもイースト・アングリア大学に在学中のことですか。

イシグロ: そうです。自分をとりまく世界から離れたときに想像力が急に羽ばたくことを私は発見しました。例えばこんな書き出しで始めたとします。「カムデンの地下鉄の駅を出てマクドナルドに入ると、そこに大学時代の友人のハリーがいた」・・・その次にはもう何を書いたらいいか見当がつかなくなってしまうのです。ところが日本について書けば何かが解き放たれるんです。私がクラスで発表した作品のひとつに、原爆が投下されたときの長崎を舞台にしたものがありました。ある若い女性の視点から描かれた物語です。クラスの学生たちは私が抱いている確信に対して最大限後押ししてくれました。彼らはこぞって言いました。「これはほんとにすごいよ。最高だ。君はきっと成功するよ」
 そしてフェイバー・アンド・フェイバー社から、新人紹介の叢書に私の短篇を三篇選びたいという旨の手紙が届きました。当時非常に実績のあったシリーズです。トム・ストッパードもテッド・ヒューズもそこから世に出たことを私は知っていました。

――『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)を書き始めたのはその頃ですか?

イシグロ: はいそうです。フェイバー・アンド・フェイバー社のロバート・マクラムさんから前払い金をもらい、そのおかげで書き上げることができました。コーンウォール州のとある町が舞台の、情緒不安定な子供を持つ、背景のはっきりとしない若い女の物語。私の心の中にいるその女性は「子供にすべてを捧げよう」と言ったかと思えば、「あの人とついに恋に落ちてしまった。この子は邪魔な物でしかないわ」と言ったりします。その間を絶えず揺れ動きます。ホームレスの現場で働いていたとき私はこういう人たちをたくさん目にしました。
 その頃クラスメイトから例の日本物の短篇について大変な賞賛の声を受けました。私はこのコーンウォールを舞台にした小説を見直すことにしました。そこで気がついたんですね。物語を日本に置き換えれば、窮屈で小さく思えたものも広大な世界に響き渡らせることができると。

――あなたは5歳からあと一度も日本に戻ったことはなかった。でもご両親は典型的な日本人の方なんですよね?

イシグロ: 私の母はその世代における、まさしく典型的な日本の女性でした。ある一定の礼儀作法を身に付けていました。今日の基準から言えばフェミニストが日本に誕生する以前の女性です。古い日本の映画を見ると、登場する女性たちの多くが母とまったく同じような振る舞いと話し方をすることに気付きました。日本の女性は伝統的にフォーマルな言葉遣いをしていました。男とはいささか異なります。それが近年では相当なところまで混じり合っています。母は80年代に日本を訪れたとき、若い女性たちが男言葉を使っているので唖然としたと私に言っていました。
 原子爆弾が落とされたとき母は長崎にいました。当時十代の後半でした。家はゆがんだ程度で済んだそうです。しかし雨が降って初めて被害の甚大さに気付きました。いたるところで雨漏りがし始め、雨が竜巻のように落ちて来ました。そんなことがあったわけですが、母は家族の中で――4人のきょうだいと両親です――原爆で傷を負った唯一の人間でした。飛んできた瓦礫に当たったのです。助けを求めて家族が町の別の場所に出かけている間、母は家にいて回復につとめていました。
 でも彼女は言うんです。戦争について考えるとき本当に怖かったのは原爆じゃないと。働いていた工場の地下にあった防空壕での出来事が忘れられないと言います。暗闇の中で人々は並び、爆弾はその真上に落ち続けました。みんな死ぬんだと人々は思いました。
 父は上海で育ったためぜんぜん日本人らしくはありませんでした。中国人的な気質のせいなのか、彼は悪いことが起こるとにっこり微笑むのです。

――ご両親はなぜイギリスへ移住されたのですか?

イシグロ: 初めは短い出張くらいのつもりだったようです。父は海洋学者で、英国国立海洋研究所の所長が父を招聘したのです。高潮の運動に関係した発明を追求してもらうためにです。それが何なのか今もってよく分かりませんけど。国立海洋研究所は冷戦中に設立され、秘密めいた空気がありましたね。彼は森の奥にあるその場所に勤務しました。私は一度だけ行ったことがあります。

――移住することについてはどうお感じになりましたか。

イシグロ: 意味するところは理解してなかったと思いますよ。祖父が長崎のデパートで私に大きなおもちゃを買ってくれたことがありました。ニワトリの絵と鉄砲があって、ニワトリを目がけて発射した弾が当たると卵がぽろんと落ちてくるおもちゃです。そのおもちゃを持って行けなかったこと、何しろそれがいちばんがっかりしたことだったわけですから。旅はBOACのジェット機で三日かかりました。覚えているのは、座った姿勢でがんばって眠ろうとしたこと、グレープフルーツを持って来てくれた人がいたこと、給油のために着陸するたびに起こされたことなどです。以来19歳になるまで飛行機に再び乗ることはありませんでした。
 しかしながら私はイギリスにいて不幸だと思った記憶はありません。もっと歳をとっていたならば事態は難しいものになっていたと思いますが。それに言葉で苦しんだ覚えもありません。そのための授業など一度も受けなかったのにもかかわらず。私はカウボーイの映画やTV番組が好きだったので、そこから英語を少しずつ学んで行きました。特に好きだったのはロバート・フラーとジョン・スミスが出ていた『ララミー牧場』。日本でも有名な『ローン・レンジャー』もよく見ました。私は、「はい」(Yes)と言う代わりに「そうとも」(Sure)と答えるカウボーイたちを偶像視していました。学校の先生に言われるんですね。「カズオくん、あなたはどういうつもりで『そうとも』って言うの?」
 ローン・レンジャーの喋り方と聖歌隊の指揮者の喋り方は違うことに気がつかなければならなかった。

――ギルドフォードはどう思われましたか?

イシグロ: 私たちが到着したのはイースターの時期でした。十字架にくぎで打ちつけられ血を流している男の凄惨でサディスティックな姿に、母は度肝を抜かれました。そして子供たちにもお構いなしに見せていました。日本人の観点から見れば、あるいは火星人の目から見たとしてもそれはほとんど野蛮人の行為でした。私の両親はキリスト教徒ではありません。イエス・キリストを神だとは思わない人たちです。でも彼らは礼節をもって周りと接していました。ちょうど見知らぬ部族に客人として招かれたときは誰でもそこの慣習を尊重するのと同じように。
 ともかく私には完全に違って見えました。田園風景と質素でモノクロームな世界、そして濃い緑。おもちゃなんかどこにもありません。ところが日本はくらくらするくらい「イメージ」が氾濫し、いたるところに電線があります。ギルドフォードは静かな場所でした。モーリーおばさんという親切な女性に連れられて、お店でアイスクリームを買ったことを覚えています。そんなような店は見たことがありませんでした。がらんとしていてカウンターには一人しか人がいない。それから二階建てバスですね。最初の数日間はバスに乗り続けました。あれはぞくぞくしたなあ。狭い路地をバスが通るとき垣根(hedge)の上に乗り付けているような気持ちがしたものです。このことをハリネズミ(hedgehog)に結びつけて考えたことを覚えていますよ。ハリネズミって何かご存じですか?

――イギリスの典型的な齧歯類では?

イシグロ: 近頃は田舎の方でも見かけなくなっています。ことによったら絶滅してしまったかも。でも私らが住んでいたところにはどこにでもいました。姿はヤマアラシに似ています。もっともヤマアラシと違って性質は獰猛ではありません。とても愛らしい動物です。彼らは夜になると活発に動き出すのでよく轢かれていました。針の付いている何だか小さい物と飛び散った内蔵をよく外で見ました。道路の脇の排水路にきれいに片付けられたりもしていました。これには戸惑いました。私はぺちゃんこになった死骸を見ていると、道路をぎりぎりに通っていくあのバスのことを連想せずにはいられませんでした。

――子供のころ本はたくさん読まれましたか。

イシグロ: 日本にいたころは「月光仮面」と呼ばれるスーパーヒーローがたいへんな人気でした。絵本に書かれてある彼の冒険譚のイメージを頭にたたき込むべく、私はよく本屋で立ち読みしたものでした。そうして家に帰ってから自分で絵を描き始めるのです。母親に頼んで絵を全部綴じてもらったらちゃんと本のようになりました。
 けれどギルドフォードでは、子供のころ英語の本で読んだものはおそらく学習用の漫画だけだったと思います。イギリスの子供たちに向けた教育書ですね。電気をどうやって作っているかとかその手のことについて書かれた本です。面白くはなかったです。私は好きになれませんでした。日本にいる祖父から送られるものに比べると色に乏しかった。学習向けの本なら今でも日本のものが断然生き生きしていると思います。優れたダイジェストで、その中のいくつかは純粋に娯楽作品としても耐えうります。漫画と鮮やかなイラストに縁どられた文章。ひとたび本をめくれば補助教材のようなものはお呼びではなくなります。
 それらの本を通じて私は、私の知らない間に日本で有名になったキャラクターに気付き始めました。ジェームズ・ボンドの日本版といった感じの人物です。彼はイアン・フレミングの原作にもショーン・コネリーのボンドにもちっとも似てないくせに、なぜかジェームズ・ボンドと呼ばれていました。漫画のキャラクターである彼に私は夢中になりました。一方中産階級の良識ある人々は、ジェームズ・ボンドを、現代社会から生じる悪をすべて体現した人間とみなしました。彼らにしてみれば最低な映画だったんです。粗野な言葉が使われ、主人公はモラルのかけらもなく、紳士とは到底思えない方法でもって人々を殴り倒し、ビキニを着た女性はひとり残らず彼と一夜を共にすることが示唆されている。だから子供のときにこういった映画を見ると学ぶようになります。ジェームズ・ボンドが別に文明社会を汚しているとは思わない大人がいるんだな、と。しかし彼は日本では教育的な、いわば承認された文脈の中で人々の前に現れたわけです。そのことは私に両者の考え方がたいへん異なることを教えてくれました。

――学校では何か書くことはされましたか。

イシグロ: しましたよ。私が通った地元の小学校では現代的な教育手法が実験的におこなわれていました。時は60年代半ばで、私の学校は決められた授業を持たないことに深い愉悦を感じていたようです。手動の計算機をいじくり回して遊んでもいいし、粘土で牛を作ってもいいし、物語を書いてもよかったのです。特に書くことが私は好きでした。それが社交的な場でもあったからです。生徒は何かちょっと書くと、すぐに互いのものを読み回し朗読するのです。
 私はミスター・シニアというキャラクターを作りました。その名前は友人のボーイスカウトの隊長の名前から取りました。スパイとしては最高にいかした名前だと思いました。それからです。私はシャーロック・ホームズに激しくのめり込みました。ヴィクトリア朝の探偵小説を模したものを書きました。依頼者が訪ねてきて長い話をするところから始まるタイプのものです。でも我々のエネルギーの大半は、店頭で見かけるペーパーバックに自分たちの本をいかに似せて作るかということに費やされました。表紙には弾痕を描いて、裏表紙には新聞から切り取った文字を貼り付けました。〝目が覚め、身も凍るばかりの緊張感〟とかね。『デイリー・ミラー』などにありがちな。

――作家としてのあなたにその経験が影響を与えているように思われますか。

イシグロ: そのときはただただ楽しく、何の造作もなく物語を考えることができました。それはずっと続いたんだと思う。物語を作り出さなくてはならないという考えに脅かされたことはありませんでした。リラックスした環境でおこなえばたいていのことはみな楽になるものです。

――さて次にとりこになったものは何ですか。探偵小説のあとに。

イシグロ: ロック・ミュージックです。シャーロック・ホームズのあと20代の前半まで本を読むことを止めてしまいました。でも5歳のときから私はピアノを弾いていたので、15歳になったときにギターを弾き始めました。ポップスのレコードを聴き始めたのは――11歳くらいでしたかね。ポップスと言っても実におぞましいものだったわけですけれど、私はそれらを素晴らしいと思いました。最初にとても好きになったレコードはトム・ジョーンズが歌った「思い出のグリーングラス」でした。トム・ジョーンズはウェールズの人なんですが「思い出のグリーングラス」はカウボーイの歌です。私がテレビで知っていたカウボーイの世界を彼は歌に込めて歌っていました。
 父が日本から買ってくれたソニーのオープンリールの小型デッキを私は持っていました。それでラジオのスピーカーから直接テープに録るんです。ダウンロード・ミュージックの原形ですね。ざーざーと音が入ってひどい録音でしたけれど私はそこから歌詞を聴き取ろうと努力しました。13歳のとき『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を買いました。発売されてすぐに買った、私にとって初めてのディランのアルバムです。

――ボブ・ディランのどこが気に入りましたか?

イシグロ: 詞ですね。ボブ・ディランが偉大な作詞家であることは私にはすぐに分かりました。当時の私は、何が良い詞で、何が良いカウボーイ映画かという二つの点については鉄壁の自信がありました。ディランが「意識の流れ」や超現実的な詞との最初の出会いだったかも知れません。それからレナード・コーエンを発見しました。彼は作詞に文学的なアプローチを持ち込んだ人で、それまでに二冊の小説といくつかの詩集を発表していました。ユダヤ人であるにもかかわらず彼の使う比喩はとてもカトリック的です。多くの聖人たちと聖母たち。彼はまたシャンソン歌手のようでもありました。
 私はミュージシャンがそれ自体で完全な存在たり得るという考え方に惹かれました。自ら歌を書き、自ら歌を歌い、編曲まで行うのです。私はこれだと思い、歌を書き始めました。

――あなたの最初の歌は何ですか?

イシグロ: レナード・コーエンに似た感じの歌です。歌い出しは確か、「君の瞳、再び開くことなからん。僕らが共に暮らし遊んだあの海辺で」。

――それはラブ・ソングですか。

イシグロ: ディランとコーエンの作品が人々に訴えかけるのは、彼らの歌が何についての歌だか分からない点にいくらか起因しています。人は自己表現をするときに苦しむわけですが、我々はいつも、十全に理解してない物事であっても理解しているふりをしなければならないという問題に直面します。若いときはそんなものですよね。ほとんどの時間をその葛藤の中で生きるのです。素直には認め難いことですけど。ともかく、このような状況を形にしてあらわしたのが彼らの歌なんだと思います。

――19歳。あなたが再び飛行機に乗った年ですがどこへ行かれたのですか?

イシグロ: アメリカに行きました。それはかねてから強く望んでいたことでした。というのもアメリカの文化にどっぷり浸かってましたから。ベビー用品の会社で働いてお金を貯めました。ベビーフードを詰めたり、「四つ子誕生」だとか「帝王切開」だとかいったタイトルの損害賠償対策用の8ミリフィルムをチェックしたり。そんな仕事です。
 1974年の4月、当時最も安かったカナダの飛行機に乗って行きました。バンクーバーに着いてからグレイハウンド・バスに乗り、真夜中に国境を越えました。1日に1ドルで旅をしながら3か月向こうにいました。その時代は誰しもそういった行動に対しロマンチックな考え方を持っていました。毎晩寝る場所について考えなければならなかった。つまりどこかに転がりこむってことですけどね。西海岸にはそのためのネットワークがヒッチハイクをする若者の間で広がっていました。

――あなたはヒッピーだったんですか?

イシグロ: そうだったと思いますよ。少なくとも表面的には。長髪に口ひげ、ギターにリュックサック。皮肉なことに私たちは全員自分が個性的な存在だと思っていました。私はパシフィック・コースト・ハイウェイでヒッチハイクをしました。ロサンジェルスを通ってサンフランシスコ、そして北カリフォルニアを隈なく旅しました。

――経験全体を通してどのようなことをお感じになりましたか。

イシグロ: それらは私に期待以上のものを満たしてくれました。神経をすり減らすこともままありましたけれど。
 あるときワシントン州から貨物列車に乗って、アイダホを通ってモンタナまで行きました。私はミネソタ出身の男と一緒にいたのですが、その夜私と彼はある使命を帯びていました。薄汚れた場所のドアの前で服を脱いで、その他大勢の酔っ払いと共にシャワー室に入らなければなりませんでした。つま先立ちで黒い水たまりを避けて通ると、先方は我々のために洗い立ての寝間着と寝台を用意していました。翌朝、いかにも昔ながらといったタイプのホーボーたちと貨物置き場に向かいました。彼らは、中産階級の学生と現実逃避者たちから成るヒッチハイカーの文化圏とはまるで関係がなかった。貨物列車で移動し、どや街からまた別の場所のどや街へと渡り歩くのです。血液を売って暮らし、アルコール中毒で貧しくて病気がちでその上ひどい身なりをしていました。ロマンチックな要素はひとかけらもありません。しかし彼らは我々に多くの良きアドバイスを与えてくれました。
「動いている列車から飛び降りようとするな。死にたくなければ。君が乗っている有蓋車に誰か乗り込んで来たら、構わず投げ落とせ。君はそんなことしたら殺してしまうと思うかもしれないが、なに問題ない。あいつらはきっと何か盗みたがる。だから列車が止まるまでの間ずっとひっついていろ。もし眠ったら、50ドル持っているというだけの理由で君は放り出されるぞ」

――その旅を題材にして書かれたことはありますか。

イシグロ: 私はケルアックの文章のパスティーシュみたいなスタイルで日記をつけていました。毎日書いていました。「36日目。誰それと会う。これこれをした」というふうなものを。
 家に戻ると私はその分厚い日記を取り出し、そこから二つのエピソードを徹底的に書き出しました。もちろん一人称で。
 ひとつはサンフランシスコでギターを盗まれたときのこと。構造について考え始めたのはそれが初めてでした。大西洋の向こう側で仕入れた、変わった訛りを文章に取り込んだわけですが、自分がアメリカ人でないこともありそれはまがい物のように感じました。

――あなたの中のカウボーイの側面が出たんですかね。

イシグロ: その痕跡はありますね。アメリカ人のアクセントには何かしびれるものがあったんです。語彙についてもそうです。高速道路のことを「モーターウェイ」と言う代わりに、「フリーウェイ」と言ったり。「フリーウェイまでどれくらいありますか?」と誰はばかることなく言えるのが嬉しかったですね。

――青年時代のあなたにはパターンのようなものがあるように見受けられます。何かを偶像視しますよね。するとそれとそっくりに真似をします。最初はシャーロック・ホームズでした。次にレナード・コーエン。そしてジャック・ケルアック。

イシグロ: 青春期はそんなふうにものを学んで行くんですよ。ただしソングライティングは模倣に甘んじてはならない領域のものです。私はそのことはよく分かっていました。
 誰かがギターを弾いているそばを友人たちと並んで通ったとします。そしてそれがボブ・ディランみたいな感じだった場合、我々はあからさまに軽蔑しました。何と言っても自分自身の「声」を見つけ出すことがすべてだったのです。友人も私も自分らが英国人であることに非常に意識的でした。アメリカ的な歌を忠実に書くことなどできるわけがないのですから。
 “オン・ザ・ロード”と言うとき、その人の頭の中にはハイウェイ61号線が思い浮かんでいるはずです。英国のM6号線ではなく。
 音の響きとしては同じなんだけれど、いかにもイギリス的だと感じさせる言葉を獲得する――これが私たちの挑戦でした。霧雨が降る中、どこかの寂しい道で立ち往生していたのなら、そこはあのアメリカの伝説的なフリーウェイではありません。キャデラックにも乗っていません。スコットランドとの州境にある灰色の環状交差点のわきで彼はたたずむのです。

――経歴によるとあなたは雷鳥狩りの勢子(せこ)もされていたそうですが。説明して頂けますか。

イシグロ: 卒業後の最初の夏、私はバルモラル城でエリザベス皇太后(クイーン・マザー)のために働きました。王室が夏の休暇地として過ごす場所です。狩りのときに獲物を追い出す役目の人間、すなわち勢子を当時は地元の学生の間から募っていました。王室は狩りをするとき人々を自分らの地所に招待します。皇太后と来賓はウイスキーとショットガンをランドローバーに載せて、荒地を突き進みます。シューティング・バット(訳注・岩で囲まれた小さな砦のようなもの)で獲物を撃ってはまた次のシューティング・バットへ移動します。我々雇われ人の一団15人は隊列を組み、ヘザーの木から100ヤードほどの間隔を空けながら歩いて行きます。雷鳥はヘザーに住んでいて、我々が近づく音を聞くとぴょんぴょん飛びはねます。シューティング・バットに着くまでには付近にいる雷鳥はみな重なるようにして集まり、皇太后一行は銃を構えて待ちます。シューティング・バットの周りに隠れる木はどこにもないため、雷鳥は飛んで逃げるよりほかはありません。そこを撃つのです。で、また次の狩り場へ移動します。ゴルフみたいなものです。

――皇太后とはお会いになりましたか。

イシグロ: ええ。その間は常に会っていましたよ。ただ、私たちの宿舎に現れたときは女の子が何人かと男は私しかいなくて、そのときは流石に縮み上がりました。どうしたらいいのかぜんぜん分からず。少し会話をしてから皇太后はまた車で帰りました。でもそこにはとてもくだけた雰囲気がありました。荒地に行けば姿はときおり見かけます。皇太后が自ら銃を撃つことはありませんけどね。お会いしたときはみんなで結構な量のアルコールを消費したと思います。みんな打ち解け合うことができました。

――そんな世界に足を踏み入れたのは初めてだったでしょう?

イシグロ: そんな世界に足を踏み入れたのはそれが最後です。

――どう思われましたか。

イシグロ: 確かに面白い体験でしたが、私はそれよりもあの地所を管理する人々の世界に惹きつけられました。「ギリー」と呼ばれる狩りの案内人です。彼らは地元出身の学生ですら理解できないスコットランド訛りの言葉を話していました。タフな人たちで荒地のことをとてもとてもよく知っていました。大学生というせいもあって彼らは私たちに対して恭しく接してくれました――少なくとも実際に狩りが始まるまでは。
 絶対に隊列を崩さないようにするのが彼らの役目でした。私たちのうち誰か一人でも列からはみ出ると、それが雷鳥が逃げ出すきっかけとなるのです。そうでもしようものなら彼らは突然怒り猛った曹長に様変わりし、崖をかけ登り、ひどいスコットランド訛りで私たちを罵ります。それこそ頭が吹っ飛ぶような勢いで叫ぶのです。「このおたんこなす!」とか。でも崖の上から降りればまたいつもの礼儀正しい彼らに戻ります。

――大学生活はどんな感じでしたか。

イシグロ: ケント大学では英語と哲学を学びましたが、英国王室からベビー用品を経て貨物列車に至るあの日々に比べると大学は退屈に感じました。で、一年経ってさらにもう一年休学することにしたんです。グラスゴーの近くにあるレンフルーという場所に行って、6か月間公営団地の福祉専門員のボランティアをしました。到着したばかりの頃私は本当に途方に暮れました。南イングランドの中産階級の家庭でずっと育ったからでしょう。そこはスコットランドの工業地帯の中枢で、しかも製造業は衰退の一途にありました。こじんまりとした典型的な団地街で、大通りは二本しかなく、人々は二つの派閥に別れお互いを憎み合っていました。その地域の第三世代に当たる人たちと、強制退去させられ他の土地から突然やって来た人たちとの間に緊張が生まれていました。政治はもちろんそこでも息づいていましたが、それは本物の政治でした。学生の政治とは天と地ほどの差がありました。私たちがやっていたのは、近年のNATOの動きに対して抗議をするべきか否かを討論するような類いのものだったので。

――その経験はあなたにどんな影響をもたらしたのでしょうか。

イシグロ: 私はそれから随分と大人になりました。どれもこれも「ぶっ飛んでる」の一言で片付けながら時速100マイルでぴゅーっと駆け抜けるような人間になることは止めたのです。アメリカを旅していたとき、「何のバンドに入っているか」と「どこから来たか」の次に訊かれる三番目の質問は「人生の意味は何だと思うか?」でした。それで意見交換して疑似仏教の奇妙な瞑想の仕方を教えてもらったりしました。禅とオートバイのメンテナンスの技術が同時に回ってくるんです。禅の本など誰もまともに読んでいませんでしたが、言葉の響きがかっこよかったんですね。スコットランドから戻ると私はそこから抜け出て成長しました。私が見たのは、その種のことが何の意味もなさない世界でした。もがき苦しんでいる人々。多量の酒とドラッグ。勇気を出して物事に取り組む人もいましたが、途中であきらめることはとても簡単なことでした。

――では文章を書くことについてはどんなことが起こっていましたか。

イシグロ: 当時本について語る人はいませんでした。話すことと言ったらテレビドラマや小劇場、映画、ロック・ミュージックなどです。
 その頃マーガレット・ドラブルの『黄金のイェルサレム』を読みました。すでに19世紀の著名な小説も読み始めていましたが、私はドラブルの作品を読んで、昔の小説の技法でも現代の物語を描くことができるという確信を得ました。ですから『黄金のイェルサレム』は疑いなくひとつの啓示だったのです。老婆を殺害するラスコーリニコフやらナポレオン戦争についてわざわざ書く必要はありません。身の周りにある出来事を小説に書けばいいのです。とは言うものの、私もひとつ書いてみようとしたんですがうまく行きませんでした。ひどい代物でしたね。頭の中ではちゃんとできてたんです。イングランドを放浪しながらひと夏を過ごす若い大学生の物語です。パブでの会話、女友だちに男友だち・・・。

――そこがあなたの作品の特徴的な点のひとつですね。ごく普通に行われていること、つまり自らの体験をフィクション化することをあなたはしなかった。現代のロンドンの生活だとか、英国に住みつつ日本人の家庭で育った経験だとかについては書かれませんでした。

イシグロ: いやいや、実際はやってみたんですよ。でもいまひとつ気が乗らなかった。私の中心命題は依然として歌を書くことにあったからです。歌でもって同じ分野に乗り上がろうと思ってたんです。

――最初に出版された小説である『遠い山なみの光』に話を戻しましょう。今はどうお考えですか?

イシグロ: たいへん気に入っていますよ。しかしそれでも内容は不可解に過ぎたと思っています。結末は判じ物のようですし。あそこまで読者を当惑させても芸術的な面で得るものは何もないでしょう。単純な経験不足でした。どこがあからさま過ぎて、どこが微妙な点であるかを見誤りました。その時でさえ結末は不満に感じていましたが。

――あなたが成し遂げたかったことは何だったのですか。

イシグロ: ええっと、そうですね。誰かが共通の友人について話していたとしましょう。彼は付き合いの上での友人の優柔不断さについて腹を立てています。もう完全に激怒しています。それを見てあなたは察するのです。彼は友人の状況について話しているけれど本当は自分自身のことを語りたいんだな、と。これは小説を書き著すときに面白い手法になると思いました。痛みを伴い過ぎるかあるいは臆病すぎるかで自分の人生はとても語れないと自覚する人物がいたら、彼には他人の物語を語ってもらえばいいのです。私は長い間ホームレスの人たちと共に働いて過ごしました。そして彼らの打ち明け話に耳を傾けました。どうしてこんな場所に来なくてはならなくなったのか? しかしそのうちに私は、彼らが実は率直に話を語ってないことを敏感に感じるようになりました。
 『遠い山なみの光』の語り手は中年後期の女性で、成人した娘は自殺しています。このことは小説の冒頭で知らされるわけですが、語り手は自殺に至るまでの経緯を説明しないまま、第二次世界大戦直後の長崎で知り合ったある友人との交流を回想し始めます。読者はこう思うだろうと思いました。「何だって俺たちはこんな関係ないこと聞かされなくちゃならないんだ?」「娘が自殺したというのにこの母親は何も感じないのか?」「だいたい娘はどうして自殺したんだよ?」
 読者は語り手自身の物語は友人の話を通じて語られていることに徐々に気がついてくれるだろうという望みがありました。しかし私は質感に溢れた回想シーンを描く術がまだ分からなかったので、仕掛けのようなものに頼らざるを得ませんでした。終盤で日本の場面が現在起こっている場面がだんだん溶け合って互いの境界線がわからなくなるところがそれです。今でも私は最新作のイベント絡みで話をするときに人から訊かれます。
「あの二人の女性は実は同じ人物なんじゃないですか。最後橋の上で悦子が佐知子の娘の万里子に問いかける場面で、〝あなた〟を〝わたしたち〟に置き換えたらどうなるのでしょう?」

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 「カズオ・イシグロ・インタビュー 2008年春 (2)」に続く。



2010年12月19日 (日)

『小さな恋のメロディ』を見ました

Mark Lester, Tracy Hyde

 ビートルズの2作目の映画、『HELP!4人はアイドル』のラストの乱闘シーンを覚えてらっしゃるでしょうか? モルディブのような美しい砂浜で主題歌のジョン・レノンの美しい声を聴きながら、カイリ教団の連中と警察が夢中になって取っ組み合いをします。そこにポールが黒装束の女に得意のウィンクをするカットや、ジョンがマチェテのような特大ナイフを敵から奪うとそれをすかさず口にくわえ警官と社交ダンスをするカットが挿入され、だんだん敵味方がはっきりしなくなって映画は終わります。

 あの牧歌的なラストシーンと『小さな恋のメロディ』のラストの乱闘シーンは、とても近しいものがあると私は感じました。
 オーンショー(ジャック・ワイルド)が追いかけてきた教師から尻叩き用のスリッパを奪って頭をぱこんと叩くと、教師はあっけなくはしごの上から落ちてしまう。ああいうコミカルな感じとかいいですね。

 ダンスの場面で、オーンショーが、
「早いとこウェスト(West End)に行こうぜ。じゃねえとあの先生、そのうち『ヘイ・ジュード』でも歌い出しかねないぞ」
 と言って仲間の笑いをとります。これには私も笑いましたが、スタッフにとってもキャストにとってもビートルズは最大のアイドルのひとつだったろうと思います。なんたって音楽がビージーズと CSNY ですからね。

 すばらしい映画でした。オーンショーに足を蹴られて泣き出すペギーという女の子も忘れられないです。

2010年8月 3日 (火)

「青い影」を書いたキース・リード

 「青い影」 A Whiter Shade of Pale を世に送り出したことで知られるプロコル・ハルムというグループには、専属の作詞家がいました。その人の名をキース・リード Keith Reid といいます。彼はまた、1967年のデビューから1977年の解散、その後の再結成にいたるすべての時代を通じてグループの正式メンバーとして名をつらねています。
(注・「青い影」は後日訳しました。第50回

 インターネット上で公開されている彼のインタビューの中から特に面白いと思われるものを翻訳しました。

Procol Harum

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「ソングライター・インタビューズ プロコル・ハルムのキース・リード」
(『SONGFACTS』 2009年4月2日収録 ・ 前半部分)


――作詞家がバンドの正式メンバーである例をほかにご存じですか?

キース: 初期のキング・クリムゾンにいたピート・シンフィールドがそうだったように思う。今思い浮かぶのはそれくらいだけれど。プロコル・ハルムについて言えば、バンドを一から立ち上げたのはゲイリー(訳注・ゲイリー・ブルッカー)と僕だ。あれは相当変わった立場だったね。作詞家がバンドの結成から何まで責任を負うなんてケースは特に。

――詞は主にどのように書かれますか?

キース: これっていう決めたやり方がひとつでもあればいいと思ってるけどね。やり方は山のように生まれるものなんだよ。僕が最初に書き始めたころはコントロールなんかぜんぜんできやしなかった。ソングライターとしての最初の何年かは、一つの詞を書いてから次の作品に行くまでが心細くて仕方がなかった。それって単にインスピレーションの問題じゃないか、と思った。道理でコントロールなんかできないわけだ。おまけにそれがもう二度とやって来なかったとしたら・・・。その後自分にも状況をコントロールする力がいくらか備わっていることに気がつき始めた。
 いつか必ず、何かが舞い降りて来る。でも来たらそれと真剣に取り組まなくてはいけない。目を見開いてなくてはいけない。耳も開いてなくちゃいけない。君は君を撃ち抜くものをじっと待つこともできる。それが入って来やすいように日頃から練習を積むこともできる。方向性を研ぎ澄ましておくんだ。
 で、僕はわかった。時期というものがあるんだと。みんなはよく「ライターズ・ブロック」(訳注・writer's block 作家が突き当たる壁)を話題にするけれど、僕には時期があるのみだ。毎日と言っていいくらい歌が生まれる「時」を人は経験する。アイデアは浮かぶし何事も調子よく進む。しかし周期そのものを追い求めようとすると、かえって一つの火花も散らさないことがあり得る。だから僕は心配しないことにした。とてもクリエイティブな時期もあれば、泉が枯れてしまう時期もある。
 真夜中にはっと目覚めてアイデアが浮かんだらすぐさま書きとめなければいけない。朝になれば何も覚えちゃいないからさ(笑)。このことを知らない作家はいないと思うよ。ともかくも書いているときに感じるのは、歌は自分のまわりにあるということだ。それはラジオのようなものだ。周波数を合わせれば、どこかでそれは見つかる。

――「青い影」("A Whiter Shade of Pale")はあなたの最初の作品ですか?

キース: いや。最初12か15くらい数があって、「青い影」はそのひとつだった。1枚目のアルバムに入っている曲はその書き始めの頃のものだ。

――「青い影」がのちにあのようなことになることは分かっていましたか?

キース: いや、分からなかった。もちろん興奮はあった。みんなとても気に入っていた。12曲かそこらの曲をリハーサルで演奏したときからそれはとりわけいい曲に思えたよ。ほかにも同じくらい気に入った曲はいくつかあったけど。1枚目のアルバムには「サラダ・デイズ」という強力な競走馬が控えていた。さて最初のセッションで我々は4曲録音した。「青い影」はもっともうまく録れた曲だった。
 当時歌の良し悪しは問題じゃなかった。どれだけレコーディングがうまくいったかということが我々の常なる問題だった。基本的にはライブ録音だったし、優秀なエンジニアに恵まれなかったり、あるいはスタジオがよくなかったりしたら本当にいいレコードは作れなかっただろうからね。ありがたいことに我々がスタジオで録ったものは、最初からすべていい音が鳴っていた。

――あなたが書いた「青い影」には元々さらに歌詞が付いていました。失われた歌詞についてはどう思われましたか。

キース: オリジナルは今あるものの二倍の長さがあった。その頃長い曲が流行となりつつあったんだ。きっかけはディランだったかもしれないしビートルズの「ヘイ・ジュード」だったかもしれない。だから僕は思ったね。よしここはひとつうんと長いやつを書いてやろう、と。だが実際にバンドでやり始めていざレコーディングという段になると、歌詞がまるごとひとつ自然に抜け落ちた。かなり初期の段階で僕らはその部分を捨てたんだ。ちょっと長すぎるかなあとは思っていた。何しろ10分近くあったから。リハーサルで歌詞を3番までにして7分くらいにサイズを縮めた。
 でもプロデューサーは言うんだ。
「なあ、もしラジオにかけてもらいたいと考えているならばだ。もしこの曲を目に見える形で現実にレコードにしたいと考えているならばだ。君らは歌詞(バース)をもうひとつ削ることを考えなくちゃならん」
 僕らはやった。うまくいったみたいだったから、それについて残念に思ったということはなかったよ。悩んだりすることもなかった。

――歌をジグソーパズルのようなものにたとえてらっしゃったのをどこかで読んだことがあります。パズルのピースを集めているのだと。

キース: ああ、それはソングライティングの初期の頃についての言葉だ。インスピレーションであれ何であれ、パズルのピースとして受け取ったものを僕は歌として感じるんだ。この場合で言うと、まず‘Whiter Shade of Pale’というタイトルがひらめいた。そしてこう思った。ここに歌がある、と。ピースがうまくはまるようにパズルを完成させていく。「絵」を見つけられれば、残りのどのピースがどこにはまるかは自ずと分かる。

――それはあなたが詞を連続的に書いていることを意味していますか。だとしたら次に続く言葉は「我々は軽やかにファンダンゴを踊った」(We skipped the light fandango.)であったはずです。それとも構想が先にあって、それとの格闘の中で詞は紡ぎ出されるものなのでしょうか?

キース: 場合によりけりだね。今の例で言えば僕は「我々は軽やかにファンダンゴを踊った」から始めた。タイトルが決まればあとはたいてい一行目から入って行く。物語がどう始まってどう終わるかは僕には分かるから。

――始まりと終わりがあるという意味で、あなたは曲を物語としてとらえているのですか?

キース: そのとおりだ。映画に近いかもしれない。物語を語りながらムードを盛り上げようとするところがね。これはある人間関係についての歌なんだ。人物の性格があって場所があって、旅がある。そこには部屋の音、部屋の感触、部屋の匂いさえもがある。確かに旅は始まっているが、詞の一行一行が助け合いながら集まったものという感じはないな。糸でつながれた感じがある。

――私はいつも「粉屋が話を語った」(the Miller told his tale)が「鏡が話を語った」(the mirror told his tale.)に聞こえていました。女が鏡を見ているときに起こったことなのだとずっと思っていました。

キース: そちらの方がよかったかもしれないね(笑)。

――あなたはおそらくチョーサーか何かをお読みになっていたと思うのですが。

キース: いや、読んでいないよ。みんなすぐに訊きたがるんだよね。「ああ。チョーサーの『粉屋の話』だ」ってみんな思うんだ。僕は生まれてこの方『粉屋の話』は一度も読んだことはない。潜在意識のどこかでもしかしたら知っていたのかもしれない。でもチョーサーから引用した意識がなかったことは確かだ。本当に。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 ということで次回の訳詞はプロコル・ハルムを予定しています。



2010年5月27日 (木)

カズオ・イシグロ『夜想曲集』

Kazuo Ishiguro - NOCTURNES

 カズオ・イシグロの短篇集『夜想曲集』を昨日読了。
 本国イギリスでは2009年5月に出版され、その年の6月には日本でも早々と訳書が出たのだけれど、ついつい読むのが遅くなった。図書館で借りようと思うとそうなる。しかしすごいね。去年気付いたときには既に予約10件とかなっていた。大変な人気。

 「老歌手」 Crooner
 「降っても晴れても」 Come Rain or Come Shine
 「モールバンヒルズ」 Malvern Hills
 「夜想曲」 Nocturne
 「チェリスト」 Cellists

 以上五作品が本書に収められている。
 すべての短篇が、その何もかもが素晴らしい。

 「夜想曲」のとある場面。主人公に向かって奥さんは整形手術を受けることを強くすすめるのだが、奥さんはこんなふうに言う。
「スティーブ、なぜぼけっとしてるの? すごい申し出よ。いまうんと言っておかないと、六カ月後にも有効って保証はないのよ。だから、うんと言いなさい。自分にご褒美をあげなさい。二、三週間痛いのを我慢すれば、ヒューンって、もう木星の彼方よ」
 木星の彼方に行けるんだ。いいなあ。こういう表現って僕は好きだ。

2009年2月 7日 (土)

『ボブ・ディラン自伝』を読みました

Bob Dylan Chronicles

 『ボブ・ディラン自伝』(2005年 ソフトバンクパブリッシング)を読了。今日はその感想です。

 孔子にしろキリストにしろ親鸞にしろソクラテスにしろ、各界の神さまたちは世のため人のためにすることに忙しすぎて、「書く」ことなんか顧みなかっただろうと思うのです。だから彼らの思想はみな、お弟子さんがまとめた書物により我々の知るところとなりました。
 神さまは本を書かない。ましてや公表するための回顧録など書くわけがない。
 というのが人類の歴史をざっと見た上での私の印象ですが、ここに来て大きな例外が現れました。それが歌手のボブ・ディランが書いた上記の自伝です。
 煙に巻くことがトレードマークだったようなディランが、ここまで真面目に、克明に、かつ親切に、信条やら思い出話を語ったというのは驚きでした。例えばこんな箇所。

「狭い室内いっぱいにアメリカのレコードがあり、蓄音機もあった。イジーはわたしをその部屋に招きいれてレコードを聞かせてくれた。わたしはその部屋で大量のレコードを聞き、巻いて保管されている大昔のフォークの楽譜まで見た。ひどく込みいった現代世界に、わたしは興味を持てなかった。それは重要でなく、意味がなかった。魅力がなかった。わたしにとって新しくて生き生きしたもの、わたしにとっての現在とは、タイタニック号の沈没やガルヴェストンの大洪水、トンネル掘りのジョン・ヘンリー、ウエストヴァージニア鉄道で男を撃ったジョン・ハーディなどだった。わたしにとっては、そうしたことがいま現実に起こっていることだった。それこそがわたしが思いを馳せるニュースであり、留意して記憶にとどめるべきものだった。」
(P25)

 フォーク界の大先輩であった、のちに恋人同士になる歌手のジョーン・バエズについてはこう書いています。

「レコードから、彼女(注・ジョーン・バエズ)が社会の変革に興味を持っていることはわからなかった。わたしは彼女を幸運な人だと思った。小さなころから彼女に合ったフォークミュージックに接して関心を向け、それを分野を超えた完璧な形で表現するすばらしい技術を身につけたラッキーな人だった。ほかに、そこまでの域に達している者はいなかった。彼女はずっと上のほう、だれも手が届かないところにいた――シーザーの宮殿に住むクレオパトラのように。彼女が歌うとだれもが衝撃を受けた。ジョン・ジェイコブ・ナイルズと同じで、ふつうの人間とは思えなかった。わたしは恐ろしくて、彼女に会いたくなかった。牙をこちらのうなじにつき立てるかもしれないのだ。会いたくはなかったが、やがて会うことになるのはわかっていた。かなり後れをとってはいたが、わたしも同じ方向を目指していた。ジョーンのなかには炎があり、わたしのなかにも同じ炎があった。」
(P316)

 そしてもうひとり。セカンド・アルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』(1963年)のジャケットを飾った、デビュー当時の彼の恋人、スージー・ロトロ。彼女に関する記述も面白いです。少々長いですが引用します。

「わたしは、前から少しだけ知っていた黒髪の女性、カーラ・ロトロと話をしていた。カーラはアラン・ローマックスの個人秘書で、そのカーラが自分の妹をわたしに引きあわせた。妹の名はスージーだったが、自分で名前の綴りを「Susie」から「Suze」に変えていた。最初に会ったときから、わたしはスージーから眼が離せなくなった。わたしがそれまで会ったなかで最高にセクシーな女性だった。白い肌と黄金色の髪をした、まじりっけなしのイタリア系だ。突然、まわりの空気が熱くなり、バナナの葉でいっぱいになった気がした。スージーと話を始めると、頭がぐるぐる回りだした。いままではヒュッと音を立てて耳をかすめるだけだったキューピッドの矢が心臓に命中し、その重みがわたしに自分を失わせた。
 (略)つぎの週いっぱい、わたしはスージーのことを考えて過ごした――心から彼女を追いだせずに、どこかで偶然行きあわないものかと願った。初めて恋に落ちた気がして、三十マイル離れていても彼女の気配を感じ、その体を自分の横に感じたいと思った。いま、いますぐにそうしたかった。映画はいつも魔法のような効果を持っていて、建物が東洋の寺に似たタイムズスクエアの映画館は、映画を見るには最高の場所のはずだった。少し前に『クオ・ヴァディス』と『聖衣』を見たばかりだったが、それでも『謎の大陸アトランティス』と『キング・オブ・キングス』を見に行くことにした。気持ちを切り替えて、少しのあいだスージーから離れる必要があった。『キング・オブ・キングス』はリップ・トーンやリタ・ガムが出ていて、ジェフリー・ハンターがキリストを演じていた。スクリーンでは重々しい物語が進行していたが、わたしは入りこむことができなかった。二本目の『謎の大陸アトランティス』も同じようにひどかった。死の光線を放つクリスタル、巨大な深海魚、地震、火山、大津波、そのほかいろいろ。もしかしたら最高におもしろい映画だったのかもしれないが、わかるわけがなかった。まったく集中できなかった。」
(P328)

 彼は、人が恋をしたときの心の動きについてとても素晴らしい正確な描写をします。でもディランはこれを自伝として書いているわけです。You’re so kind!

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